13.京保山城(キョウノヤスヤマジョウ) 【旧南保山城】
朝日町南保地内

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Image71.jpg 黒菱山系に連なる南保山地の南端に聳える、標高342mの京保山には、旧南保城が築かれていた。
 この城は平安時代末期の寿永年間(1182‐1184)のころに、宮崎太郎の弟である南保次郎によって築かれたといわれる。南保氏はその名乗りから南保の保司と見られ、「平家物語」などに登場するが、平時は山麓の居館に住んで農業を営んだり農民を指導・管理していたが、戦時には物資の確保や村人の安全のためこの山城を中心に曲輪、倉庫および放牧していた馬を収容する馬小屋などを設けて防備していたものと思われる。

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【高畠城】

Image72.jpg 高畠神社の北側、清水寺との間の字像僧坊に城があったといわれ、その跡を通称「館(たち)」といっている。城は西面していて、南北には堀跡があったという。
 昔はそこでよく刀の折れたものなどが掘り出されたという。この城には「館弾正(たちだんじょう)」という領主がいたことが伝承されている。館弾正は天文年間(1532‐1554)に大家庄字三枚橋に居を構えており、その跡を館といい、近年まで濠跡があったといわれるが、南保の館弾正と同一人物か、どのような関係があるか等は不明である。

【牧城(新南保山城)】

Image73.jpg南北朝期(1336-1392)の山城とされるが、築城の時期も人物も明らかではない。
城郭遺構には戦国時代の特色も見られることから、南北朝以後もたびたび活用されたものと考えられ、当地の土豪に率いられた我々の祖先も築城や合戦に加わったであろう。その土豪の一人として考えられる人物に、永正7(1510)年2月に薬師如来御身体一尊を奉げた「南保村住人深松源□行久」がいる。また、鎌倉新仏教の一つ、時宗の15代尊恵上人の代(応永24(1417)‐永享元(1429))に記された『時衆過去帳』には、朝日町関係者として「越中南保」中先禅師が見える。時宗の盛んな地域には、また阿弥陀仏を本地仏とする熊野社の信徒が多かったと言われる。戦国時代の南保城下は東西交通の拠点であり、時宗の教化も進み南保町などに鎮座する熊野社とも関係することから、当時の南保城主の姿が垣間見えるように思える。

【南保城(脇の城)】

Image74.jpg 二ツ村(現在の桜町)にあったとされる城館跡。伝承によれば、寛永年間(1624-1644)に、南部弥五左衛門が足軽十人を付けられ、この館に住んだという。また、平安時代末期の寿永年間(1182-1185)に源義仲に従った南保次郎家隆の居館があったともいわれ、天正年間(1573‐1592)には上杉謙信の持分であったと伝える。
 また、城の規模は東西40間(約72m)、南北36間(約65m)あったとされ、まわりに水掘がめぐらされていて、その水掘の一部が明治初年まで残っていたという。

【昇天の松】

Image75.jpg 南保城跡にある黒松二樹。この地に城の馬場があり、そこに植えられていた松が成長したものともいわれている。
 伝説では、いつの頃か、江戸(東京)と西京(京都)に甲斐と鳩連という2人の力士がおり、相手より自分が強いことを競って、南保碩の松林で相撲を取ったが、なかなか勝負がつかず、ついに取り組んだまま力尽きて両力士とも昇天したという。

【殿様の馬乗り石】

 桜町にかつて南保城があり、城内には殿様が馬に乗るときに踏み台にして使った石があった。あるとき戦争が起き、戦いに負けて南保城は落城した。殿様は城から逃げるとき、無念の思いから、踏み台の石に刀で3筋切りつけたという。
 この石は、殿様の子孫という「おやしきどん」(南茂家)の宅地内に残されている。

【南部様屋敷跡】

 南部様は、南保城の東側の館で、「御旅屋どん」と呼ばれた旧家。南保城に仕えていたものと思われる。現在、屋敷跡は、荒れ地となっている。

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