1.北陸宮御所跡地 (ホクロクノミヤゴショアトチ) (推定地)
朝日町笹川字美ノ輪地内 外

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 10世紀に入ると未開墾の土地でも国司の「別符」許可を得ると、荘園の地続き分の開発が許可された。宮崎氏は早速、城山地塊の南側山麓の上木谷流域、大溝川流域、笹川下流域の開発に着手した。開墾の荘官は、宮崎太郎の弟別符三郎に管理させた。
三郎は名主として「別符三郎」と呼称して、館を城山の南麓で笹川と大溝川の合流点にある平地に置いたようだ。
 別符三郎の館は、一辺が40m程度の屋敷で、西側は笹川、南は大溝川を堀とする、地名の「美の輪」「手取田」「辻の内」「宮谷」「一の坂の先端部」を敷地として、外回りを石垣と土塁によって囲まれた「築地の内」だったと考えられる。
 寿永元年(1182)8月末に北陸宮が宮崎の地へ到着した。安全を第一に考えた義仲の命により、街道と港に面した宮崎太郎館から、山の巡る別符の宮崎三郎館を改築した行在所に移ったものと考えられる。

【北陸宮(ほくりくのみや)】(1165~1230)

 後白河天皇の孫、以仁王の第一皇子。母は八条院の女房。木曽宮、加賀宮、還俗宮、野依宮、嵯峨の今屋殿とも称される。治承4(1180)年、父以仁王敗死後、出家して北陸に逃げ延びたが、木曽義仲の庇護を受け俗人に戻り元服、越中国宮崎に住んだ。寿永2(1183)年8月、義仲は宮を新帝とするよう強硬に主張するが入れられなかった。義仲が後白河法皇との反目など苦境のさなか、同年11月、宮は失踪した。文治元(1185)年11月、源頼朝の沙汰で帰京、嵯峨野に住んだ。藤原宗家の娘を妻とした。寛喜2年7月8日薨去。

【美の輪の宮崎城主館】

笹川字美の輪の地は、歴代の宮崎城主が館を構え、天正12(1584)年に上杉景勝に攻められ、戦乱の折に落馬して捕えられた宮崎城主美輪権平の居館があったことも 伝承されている。

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【宮谷(みやだに)】

笹川地区、城山の山すそからふもとにかけて存する地名で、小さな川(宮谷川)が流れて笹川本流へと注ぐ。昔、北陸宮が平家から逃れて当地に来られた際、この谷に隠して宮を保護したという伝承がある。

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