6.脇子八幡宮(ワキコハチマングウ)
朝日町泊1156番地

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 大宝2年(702)に高向朝臣 某が、越中越後の国境鎮護の神として、八幡山(現在の城山)の頂上に誉田別尊(八幡神・応神天皇)をお祀りしたのが起源とされる。
 木曽義仲は寿永2年(1183)に京攻めにあたり、当宮に宝剣一振を献進し、武運長久を祈願したという。義仲は当地の豪族宮崎太郎のもとに身を寄せられていた以仁王の遺児 北陸宮を還俗・元服させて、宮を総大将として京へ攻め上った。
 義仲はみごと目的を果たした後、当宮の社殿門をすべて改築し、感謝の意を表したという。
 その後も特に武士から多く参詣を受け、戦国武将の上杉謙信も武運長久の祈願をしたことが知られる。天正のころ山麓の、現在の元屋敷字和倉の地にあった泊に移り、泊町の氏神と仰がれるようになった。江戸時代に入り、加賀前田藩などからも尊崇を受けたが、享保2年(1717)の高波で泊町が大被害を受け、町が現在地へ移転し、当宮も同5年(1720)には現在地へ遷座した。

【室町街道】

 脇子八幡宮境内に残る旧北陸道の一部。本殿への階段の途中に、階段を横切るように通っている。木曽義仲が北陸道を攻め上った際にこの道を使ったともいわれる。

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【弁慶の足跡石】

Image32.jpg 脇子八幡宮の境内に弁慶の足跡といわれている石がある。この石は、その昔弁慶が黒部山からひとまたぎをして、左足でこの石を踏んだときに、くぼんで出来たものと伝えられている。くぼみの大きさは実物大程度のものである。

【鬼遠祭(ぎおんまつり)】

 脇子八幡宮の大祭。鬼遠祓(鬼打ち、罪悪、汚れを遠くへ追い払う)の神事として、6月30日午後6時から厳かに神殿にて執行されている。神社から氏子に紅白の人形が届けられ、これに家族の氏名と年齢を記載して、社殿でこの人形に罪・けがれを除いていただけるよう念じつつ、息を吹きかけて礼拝する。茅の輪くぐりも行われている。夜はぼんぼりが境内にともされて、高い山の社殿は、夜空にくっきり浮かびあがる。

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