11.宮崎太郎供養塔(ミヤザキタロウクヨウトウ)
朝日町城山地内

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 城山の山頂から少し下の三の丸付近に、小さな塚と一つの五輪塔があります。これらは朝日町の平安時代をしのばせる遺跡です。
 平安時代末期の朝日町には、宮崎の地を中心に活躍した豪族「宮崎太郎長康」がおり、一族である南保次郎、入善小太郎ら「宮崎党」を率いて木曽義仲に従軍し、礪波山(倶梨伽羅峠)の合戦などで活躍しました。
 宮崎太郎長康は、「平家物語」「源平盛衰記」などに登場する豪族ですが、生没年は不詳で、墓も朝日町にはありません。この五輪塔は、そんな宮崎太郎に思いを馳せ、昭和48年に北陸宮墳墓に隣接して長野県下伊那郡阿智村に現存する宮崎太郎の子孫の墓碑をかたどって建立されました。

《参考》宮崎氏の墓所について

【宗円寺宮崎氏墓所(長野県下伊那郡阿智村伍和)】

Image53.jpg 宮崎太郎の子孫とされ、江戸時代初頭から宝永4(1707)年まで阿智村内の向関村の領主であった向関宮崎氏の墓所。向関宮崎氏は宮崎氏宗家の家系で、天正14(1588)年、父泰景と共に徳川家康の直参となった半兵衛泰重のころから向関村に住んだようだが、泰重は家康に従って江戸に赴き関東で没したので、当寺には2代目の半兵衛重次以後の4代が葬られている。墓所中央の巨大かつ重厚な2基の五輪塔は半兵衛重次夫妻のもので、重次の法名「宗円」が当寺の寺号となっている。
 なお、この墓所は墓地造成のために移動したもので、もとの位置ではない。
 また、朝日町の宮崎太郎供養塔は、ここの五輪塔をかたどったものである。

【浄久寺宮崎氏墓所(長野県下伊那郡阿智村駒場)】

Image54.jpg 浄久寺は宮崎太郎の子孫とされる上町宮崎氏、下町宮崎氏等の菩提寺であり、旗本であった彼らの権勢をしのぶ五輪塔・宝篋印塔・墓塔等が多数存する。近世初期の当主宮崎泰景の娘で徳川家康の側室となったお仙(泰栄院)は当寺中興の願主として浄久寺の院号にもなっており、藤枝の浄念寺からこの寺の改葬されたと記録にある。宮崎墓所中央の総丈160cmに及ぶ五輪塔はその形容からお仙の墓と思われていたが、刻字は泰栄院の法名・院号と一致していない。
 この宮崎墓所は、山崩れや井水工事により移転している。

【本願寺宮崎氏墓所(東京都府中市白糸台)】

Image55.jpg 東京都府中市にある浄土宗の寺。源頼朝が奥州合戦の際に持ち帰った藤原秀衡の守本尊の薬師如来を祭ったのに始まるとされる。その後永正13(1516)年、教誉良懐上人を迎えて中興開山としたとされ、さらに天正2(1574)年には、この地の領主となっていた徳川家臣宮崎泰重が、4世の真誉円良上人に帰依し、堂宇を寄進して
寺を現在地に移転したと伝えられている。
 境内には宮崎泰重及びその子孫の墓がある。

【荒町宮崎氏墓所(黒部市荒町)】

Image56.jpg 宮崎太郎夫妻、宮崎定範夫妻のものと伝わる墓石および荒町宮崎氏の代々の墓が存する。中央の墓石の文字は、北陸宮の筆によるものと伝える。考古学者によれば、墓石は江戸時代初期か室町時代末期のものと推測されるという。この墓所は、もと荒町屋敷跡にあったものを、近くに共同墓地ができた時に、そちらへ移設したもの
である。


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【五輪塔とは】

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卒塔婆(そとば)の一種。五大(ごだい)にかたどった5種の部分からなる。五大とは、物質の構成要素である地、水、火、風、空のことであり、輪とはすべての徳を具備するという意味をもつ。したがって五輪とは、地輪、水輪、火輪、風輪、空輪の総称であり、それぞれ方形(基礎)、円形(塔身)、三角形(笠)、半月形(請花)、団形(宝珠)につくられている。密教に由来し、平安時代のなかばごろから死者への供養塔(くようとう)あるいは墓標として用いられた。石造りが一般的であり、木、金属、泥などでつくられもした。地輪には、造立の趣意、紀年、施
主名などを刻む場合がある。
 造立年代について、火輪部の軒の反り具合に注目して年代決定の要素とされている。つまり真反りという直線部分がほとんどないものを古くし、それから両端のみをわずかに反らせるもの、両端部を大きく反り上げるものの順に新しくなるとされる。ただし、個別あるいは地域間を飛び越えて比較した場合、すべての五輪塔に通じるとは必ずしも言えないが、傾向としてはそのようなことが知られている。

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