6.鏝絵(コテエ) 【折谷賢二宅土蔵】
朝日町笹川4553番地

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  明治27年から38年にかけて造られた土蔵で、室内入り口の土扉には正面向かって右手は上を「大黒」下は「白馬」、左手は上を「恵比寿」下は「黒馬」の鏝絵がある。
 背面の二階中央には窓を開き、窓は鳥居枠付きの両開き土扉で、扉には「鯉の滝登り」、冠木の両端は黒の八双金物型、中央には「見返り龍」の鏝絵を描く。
 蔵印は右手に「松と鷹」左手に家紋の「茗荷」の鏝絵である。
 また、外壁の腰壁は県内でも珍しい亀甲模様の群青色のなまこ壁である。
 作者は小杉町の左官職人、竹内勘吉(1830∼1916)とされるが、手法などから、息子の竹内源蔵(1886∼1932)である可能性もあるという。
 その他、笹川の諏訪神社には、川中島の合戦を描いた見事な鏝絵の絵馬が奉納されている。また、他の家の土蔵にも多く鏝絵が残っており、笹川地区においては昔から鏝絵が好まれ、土蔵を建てる際に鏝絵で装飾を行う文化があったことが知られる。

【鏝絵(こてえ)とは】

 日本で発展した漆喰を用いて作られるレリーフのことである。左官職人がこてで仕上げていくことから名がついた。
 古くは高松塚古墳、法隆寺の金堂の壁画にあり歴史は古い。また天平年間の立体塑にも見られる。具体的には小さなこてを焼いて、それによって紙または板を焦がして描く。焼き絵、鉄筆ともいう。 木で心柱を作り、その外側に荒土や白土にすさ糊を混ぜた材料で作るのが鏝絵の源流。 漆喰は、貝殻と木炭を重ねて焼いた灰で作る。

【竹内平右衛門(勘吉)】

 天保元(1830)年の生まれ。旧小杉町の左官職人で、左官集団「竹内組」の頭領。
明治35(1902)年の新聞に「小杉の左官竹内勘吉の壁細工、数十人の見習を集める」とあり、このころすでに鏝絵を始めていたことが知られる。笹川の諏訪神社に奉納された絵馬や、折谷賢二宅土蔵の鏝絵も勘吉の作と伝えられている。大正5(1916)年、86歳で亡くなった。

【竹内源造】

 明治19(1886)年、竹内勘吉の五男として、小杉町三ケ上新町に生まれる。幼名は源次郎といった。小学校卒業後、すぐに家業を継ぎ、左官の技を磨く。
 明治44(1911)年には、射水郡役所から「一級漆喰彫刻士」として表彰され、以降改名して源蔵と名乗った。父勘吉が大正5(1916)年に亡くなると、竹内組を正式に受け継ぐ。源蔵は、小杉左官のすぐれた伝統技術を引き継ぎ、自らの芸術的感覚で新たな意匠や表現法に挑み、磨きあげた技法を駆使して、数多くの作品を遺した。昭和17(1932)年、56歳で亡くなった。

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