9.宮崎城跡(ミヤザキジョウセキ)
朝日町城山10番地

Image40.jpg

Image41.jpg

県内最古の山城である。越中越後の国境近く、東は親不知の嶮、西は黒部川扇状地、北には富山湾を隔てて能登半島を望み、真下には日本海側の交通幹線の北陸道をふまえる城山地塊(標高249メートル)の山頂から山腹を利用して築かれた、天嶮と交通要地を押さえた防塞である。
 平安時代末の寿永元年(1182)に北陸へ逃れてきた、後白河法皇の第二皇子「以仁王」の第一王子「北陸宮」を、木曽義仲が宮崎城の豪族宮崎太郎に命じて当地にお迎えして守護させた。木曽義仲は宮崎太郎らとともに北陸宮を奉戴して、越中進攻さらには入京を果たすこととなるが、その足掛かりを固めた城として知られる。
 その後も、南北朝、戦国時代に、国境の攻防にしのぎを削る合戦の拠点となった。やがて前田氏が新川郡を領有し、境関所を設けるとともに廃城となった。
 今日残存する宮崎城跡にある御所跡は、北陸宮が日ごろいらっしゃった場所でなく、公式な行事に充てられた御所跡と思われるが、そこは上下二段になっていて段の高さは四間あり、上段に御所を、下段に
御所の外廊を設けたものと考察される。そのころの石垣が今も残っており、いにしえの時代をしのばせる。

Image42.jpg
※竹内俊一『両越国境朝日町の山城』

【各地の宮崎氏の城館跡等】

1.中関旧宮崎邸(長野県下伊那郡阿智村春日中関)

Image44.jpg 阿智村にある宮崎家の旧宅で、阿智村へ寄付された。村では土蔵等は記念館と して改装、本宅は取り壊して歴史公園として整備する予定という。
 屋敷に隣接する土地には、村の天然記念 物「中関の男杉」があり、中関宮崎氏の 氏神のご神木として崇敬されたという。

2.座光寺宮崎館跡(長野県飯田市座光寺)

Image45.jpg 木曽義仲の死後、宮崎太郎は信濃国に入り館を構えたとされ、その跡とされる所に現在でも宮崎太郎の子孫と称する方が住んでいる。
 家の入口には「南無阿弥陀仏」と彫した宝永7(1710)年の墓碑がある。

3.荒町屋敷跡(黒部市荒町)

Image47.jpg 宮崎太郎の時代、宮崎城の支館とされたという館が黒部市荒町(田家)にあり、太郎の嫡孫である宮崎定範の子孫が代々住んだという。 
 屋敷跡にはかつて宮崎太郎・宮崎定範のものと伝えられる墓があったが、現在は共同墓地に移設されている。
 現在は敷地の一部が宮崎文庫記念館となり、一角に「宮崎党が活動の荒町屋敷跡」と刻まれた記念碑が建っている。

関連リンクなどLinkIcon