常陸国(茨城県)鹿嶋神宮のご分霊が宮崎の沖の島に降臨され、村人たちがお祀りしていたが、後世に現在地に社殿を遷し、佐味郷の総氏神として崇敬された。
境内はもと16,290坪(約53,850㎡)の広さをもっていたが、明治初年の地租改正の際に1,104坪(約3,650㎡)に縮小され、残りを部落の共有林として払い下げられた。いわゆる明神林はこれにあたる。明治43(1910)年に村内にあった神明社を合祀して鹿嶋神社と改称し今に至っている。
本殿は明神林の中腹にあり、嘉永年間(1848~1854)の建造と伝えられているが、流れ造りの壮麗なものである。拝殿は明治12(1879)年ころの建造と推定され、千鳥破風・唐破風ずきの総欅材の豪壮な流れ造りである。
なお、平安時代の書物「延喜式」に記載されている「神度神社」は当社にあたるとされている。
治承年間(1177‐1181)に木曽義仲の奉幣があり、後世には戦国武将の柴田勝家や織田信長らから神田を寄進されたという。
【鹿嶋神社拝殿と彫刻】
建立の時期については、彫刻の年代からして、明治12(1879)年ころの竣工と推定される。入母屋造りで、欅材を使用、屋根は総瓦葺きである。正面は千鳥破風及び軒唐破風を向拝柱にて支える。正面千鳥妻には、中央に力士像を置き、妻虹梁を支えている様相は、まことに趣がある。
彫刻の作者は、社寺彫刻の巨匠、北村喜代松(三代正信)であり、その力強さは、見る者の心を引きつけるものがある。
【北村喜代松(きたむらきよまつ)〔三代正信〕】(1833~1906)
宮大工。市振の生まれで、生家は代々彫刻師であり、仕事名として代々正信の名を受け継いできたが、父親が早死したため、長野の北村家の養子に入った。明治10~30年ころは合社・合寺・廃寺が盛んで、越中・越後での仕事が忙しくなったため、明治9(1877)年に市振の生家に移り住んだ。上越・北信濃・越中などにまたがり広く社寺彫刻の傑作を残した。
【宮崎定範(みやざきさだのり)】
鎌倉時代の武将。越中国宮崎城を本拠とした。承久3(1221)年、承久の乱で後鳥羽上皇方につき、市振浄土で鎌倉幕府軍を迎撃したが敗北。
宮崎城落城後は礪波山へ退却し再戦したが敗れた。
大正時代に「忠臣」として正五位を贈られた。宮崎の鹿嶋神社境内には、宮崎定範の記念碑が建っている。