2.五輪塔板碑・僧形八幡像 (ゴリントウイタヒ・ソウギョウハチマンゾウ)
朝日町笹川字渕尻地内

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 北陸宮御所の南端にあたる大溝川と笹川の合流点の淵尻の大岩には、護衛として宮に伴ってきた長井家が宮の無事と繁栄を祈り、京都の岩清水八幡宮を分祀した八幡社があったと伝えられている。八幡社は後世、笹川の長井氏の氏神として尊崇されたが、慶応(1865‐1868)のころ、社殿が朽ちたためご神体を諏訪社に一時移したのがそのままとなり、大正5年になって折谷・小林氏の氏神である十二社とともに正式に諏訪神社に合祀され、今に至っている。
 時がたつとその大岩も河川改修や道路の拡張で削られ小さくなり、その脇に跡地から出土したという僧形八幡像と、戦国時代の15世紀の上杉と佐々軍の戦に「手取田」で打ち取られた武士の供養の五輪塔板碑(朝日町指定文化財)が納められている。

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【氏神(うじがみ)】

同じ地域(集落)に住む人々が共同で祀る神。もとは古代氏族が祖神または守護神として祀っていた神をいった。

【地神〔地鎮〕(ちじん〔じちん〕)】

各地の鎮守や屋敷神など、その土地や屋敷を守護する神。笹川においては、特定の家で、屋敷の隅やそれに続く山すそなどで祖先を祀り守護神としていた。

【七人の同苗】

 笹川村の開拓については、村の口碑によれば、昔「亮(すけ)」(竹内氏の祖)「左衛門」(長井氏の祖)の2人がこの土地を開いて居住したという。彼らは各々の土地の領有を定め、その境界の谷を「仕切が谷」と名づけ、その永住を祝福して地躍をした土地を「地躍」と名づけた。今日ではその地名がなまって、「シギャラ谷」「ジョードー」と称している。亮は仕切が谷の北に、左衛門は南に住んだ。
 その後、3番目に三郎左衛門(小林氏)、4番目に与兵衛(堀内氏)、5番目に五郎右衛門(深松氏)、6番目に六郎兵衛(折谷氏)、7番目に七左衛門(宇津氏)が来住した。この7家は「七人の同苗」として村人の尊敬を受けた。これらは笹川の宗家であり、各家に地鎮(祖先の墓)を祀っている。

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竹内氏 五輪塔(字尻井)
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堀内氏 五輪塔跡(字北野)          勝田氏 五輪塔(字最禅)

○種子板石塔婆〔朝日町史跡〕・五輪塔(字最禅)

  鎌倉時代、笹川の北野台地の麓に修験者が活動する道場として、最禅坊という拠点を設けた。信者らが参道に塔婆(簡易な仏塔)を建立したが、その初期のものがこの板石塔婆である。砂岩の板石の側面を調整し、頭に横の一線を刻み、身にはサンスクリット語(梵字)で「金剛界大日如来」を指す「バン」(「 वं 」)の種子(仏尊を象徴する文字)が刻んである。
鎌倉時代以後も参道での造仏は続き、五輪塔、陽刻五輪塔、種子塔婆などが、室町時代まで祀られ、北野長
 井家一門の地神とされた。

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○小林家五輪塔〔朝日町史跡〕(字窪畑)

  小林家は笹川の七人の同苗の1つで、土地を開拓した先祖を、屋敷地の東北に続く笹川支流の大谷川の舌状尾根で、地神として祀っている。この五輪塔は、地輪(基礎部分)の幅に対して高さの比率も大きくなく、水輪(球状部分)は球形に近く曲線も優美で、火輪(屋根状部分)の軒反りの勾配もゆるくわずかに反っているだけで古風である。

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○長井氏地神(字宮平)

  五輪塔および祠の中に納めた石像を地神として祀る。石像は、目を大きく見開き、口をへの字に結び、髪を逆立て、右手に鎌、左手に宝珠を持ち、両足で波を踏まえている。
  風水害等の災害から守護されることを願い、地神として祀られたものであると思われる。

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【笹川の氏神】

 7人の同苗のうち、竹内・長井・折谷の3氏はそれぞれ村内に氏神をお祀りした。
 竹内氏は諏訪社を字宮平(現在の諏訪神社)に祀り、例年8月27日にお祭りを行っていた。のちに堀内・深松の両氏も諏訪社を崇拝した。
 長井氏は八幡社を俗称宮の陰(五輪塔板碑・僧形八幡像所在地)に祀り、例年3月12日にお祭りを行っていた。
 折谷氏は十二社権現を権現山山頂に祀り、例年2月9日にお祭りを行っていた。のちに小林・宇津の両氏も十二社権現を崇拝した。
 大正5年に諏訪神社に八幡社・十二社権現を合祀した際、村人が合議して、例祭を諏訪社の祭日の8月27日に、祈年祭を八幡社の祭日に近い3月10日に、新嘗祭を十二社権現の祭日の「9」をとって11月19日に執り行うこととした。

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