10.北陸宮墳墓(ホクリクノミヤフンボ)
朝日町城山地内

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 治承3年(1179)の冬に、後白河法皇が清盛により幽閉され、これを怒った法皇の第二皇子「以仁王」は、平家打倒の命令を地方に発せられました。これを受けた武士たちが各地で挙兵し、平家打倒の戦いは全国的な動きとなりました。
 「北陸の宮」は、この「以仁王」の第一王子で治承4年(1180)、父王が挙兵されるとして剃髪され、隠棲されました。ついで寿永元年(1182)に父王の守り役だった讃岐前司重季に導かれて北陸へ逃げのび、越前を経由して越中に入り、木曽義仲の奉ずるところとなり、豪族宮崎太郎の護衛により宮崎の地に居住されることになりました。
 この墳墓は、北陸宮をしのび、昭和45年に京都南禅寺裏山にある北陸宮墓地から分骨を受けて宮崎城三の丸跡に建立されました。宮の墓の土を甕に納め、ふくさに包み、「北陸宮 以仁王第一王子 寛喜第二年七月八日薨 御年六十六」と記された陶板を附したものが埋めてあり、北陸宮をお祀りしています。
 地方に皇族の墳墓があるのは、全国的に珍しいことです。

【北陸宮墓所について】

 北陸宮が、帰洛後に永住地とされた「野依」(のより)という地区については、現在の広沢池のあたり「御所ノ内町」(京都市右京区)に御殿跡があったと推定される。
 実子のなかった北陸宮は弟の安井宮を継嗣とされたが、安井宮は観勝寺に入られた。
観勝寺は元禄8(1695)年に讃岐の金毘羅大権現の分霊を奉斉してから安井金比羅宮と称せられたが、明治元(1868)年に神仏分離令に基づき寺院の性格は嵯峨の大覚寺に移し、他方神社は明治6(1873)年には安井神社と改称され、戦後に安井金比羅宮(京都市東山区)と変わり今日に及んでいるが、北陸宮の祭祀は現在この神社では行われていない。
 北陸宮の墓所の所在地については、神仏分離令の際に安井宮関係の墓碑はことごとく新しく設定された南禅寺の裏山の「安井宮墓地」に移転された。したがって北陸宮墓地もここと解される。

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※安井金比羅宮(左右とも)

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