5.御射山祭神事(ミサヤマサイシンジ)  【推定地】
朝日町笹川字的場地内 外

Image16.jpg

Image17.jpg

 笹川の諏訪神社の創建には、下社大祝の金刺盛澄が大きく貢献した。金刺盛澄は弓の名手で、木曽義仲とは親密な関係にあった。
 平安・鎌倉時代の信州諏訪大社下社では例年の8/26~28の3日間には、山の神を祀る御射山祭が行われた。神に捧げる供物をとる御狩神事、武芸を競う流鏑馬、笠懸、犬追いなど走る馬上からの騎射競技や奉納の芸能が行なわれたという。
 この祭りは笹川でも行なわれた跡が、古い地名で遺されている。
 南東には山神様に祈る「権現山」。御狩を行なった「狩矢場」。神に供物を捧げた「神上り」、騎射出発点の「オコナデ」。
 招待者や武士団の席の「御座ダン(五十段)」「武者ダン(六十段)」。諏訪社人党の桟敷「社家」、標的を置いた「的場」などである。
 今日、諏訪神社の祭礼は、武技の競い合いはなく、ただ奉納芸を捧げる祭りとなったが、境内に立ち笹川渓谷を見下ろすと、昔の御射山祭の盛時が偲ばれる。

Image20.jpg

Image21.jpg Image22.jpg

【御射山祭神事】

 全国の諏訪神社の本宮である諏訪大社では、上社・下社それぞれに御射山祭が行なわれていました。旧暦の7月下旬、八ヶ岳山麓で巻狩、草鹿射ち、相撲などの武芸が行なわれたほか、里宮では御霊会風の行列が練り歩きました。御射山祭は鎌倉幕府の下知によって信濃国内に領地をもつ御家人すべてが回り番で費用を負担しました。
 祭りは武将ばかりでなく一般民衆にも見物が許され、身分の上下を問わない全国規模の大イベントだったのです。下社の御射山祭りは、室町時代に下社大祝の金刺氏が上社によって滅ぼされてからは衰退しましたが、祭典に集まった武士たちによって御射山祭の風習は全国に広められ、「ミサヤマ」と呼ばれる地名や神社が現在でも各地に残っています。
 御射山祭は二百十日に先立って山上で忌籠もりをし、いけにえとして動物を捧げることで祟りやすい山の神を鎮めて台風の無事通過を祈願するのが本来の目的だったといいます。
 諏訪神はもともと風よけの神として信仰されていました。諏訪大社には薙鎌と呼ばれる風封じの神器があります。これは五行説の「金克木」に基づいた思想であるといわれています。つまり金気である鉄鎌を、木気である木に打ち込むことにより、間接的に木気である風を封じこめようという呪法なのです。
 現在の例祭日は8月27日で、上社の御射山社は長野県八ケ岳の山麓にあり、下社は江戸時代初期に八島高原(長野県霧が峰高原内)から秋宮東北五キロ程の山中に移されました。青萱の穂で仮屋を葺き、神職その他が参籠の上祭典を行うので穂屋祭りの名称があります。なお今では農作物の豊穣祈願と二才児の厄除健勝祈願を行うお祭りとなっております。

Image23.jpg
※現在の上社御射山社(長野県諏訪郡富士見町)≪

【旧御射山遺跡(長野県諏訪郡下諏訪町)】

 八島湿原の南端、御射山に、諏訪大社下社の奥宮ともいわれる、四方に御柱の建った小さな社があります。中世には、ここに軍神、諏訪大明神を祭って御射山の祭りが開かれ、諏訪、甲斐を中心に武士や幕府の重臣たちが集まりました。
 祭壇を中心にして、広く三方を囲むなだらかな丘の中腹を数段に削って桟敷を設け、小笠懸、相撲、草鹿、武射競馬などの奉納試合を行ったといわれています。
 祭りは夏の5日ほどで、その期間は見物客も集まり、田楽、猿楽などの興行もあったといいます。
 この桟敷の跡が、今も丘の中腹にスタンドのような形で残っています。

Image24.jpgImage25.jpg


※左:旧御射山遺跡≪諏訪市博物館HP≫
 右:旧御射山遺跡で行われた御射山祭神事(想像図)≪ヒュッテ霧ヶ峰HP≫

Image26.jpg

※左地図:旧御射山遺跡、右地図:笹川御射山祭神事跡(同一縮尺)

関連リンクなどLinkIcon