笹川の地名

地名の由来

本コ-ナ-は、勝田義雄さんが生前に作成された資料をWeb用に編集して記載しています。
また、【笹川地図、字地名】の項は下記を参考に作成しました。

はじめに

 明治初年頃、土地台帳が作成されたとき、古来よりあった地名の中より選択して台帳の小字名が定められたそうです。その時、切捨てになった地名で現在でも語りつがれているもの、又は、既に語りつがれなくなった地名と様々ですが、段々語りつがれなくなる地名が多くなりました。
 それで、何時か土地台帳に記載されていない地名を調査してみたいと思い、部落の打立帳や古老の方々に会っての聞き取りなどして、その地名を□枠中に書込んでみました。未だ洩れているものも有ると思いますが、その節はお知らせ賜れば幸甚に存じます。
今後、農地の基盤整備事業など進展に伴い、益々台帳登載の地名は消滅していくことでしょう。
 尚、古来より永く語りつがれる間に言葉の上で変わってきている地名もあるので、その分は漢字とヒラカナとを併記してみました。

朝日町笹川  勝田義雄(忠三郎)

笹川の地名

  昔は至る所に篠が叢生していて篠郷(ささごう)と称したが、後に笹川と称するようになったと言う。
文献の上では明暦3年12月16日付の「知行付」に新川郡篠川村とあり、宝永以後の公用文書にはすべて笹川の文字を用いるようになった。
宝永元年8月の「伊東十村留帳」には「笹川村肝煎九郎兵衛」とあり、村を開いた人々については次のとおり口碑により語りつがれている。

【村を開墾した人々にまつわる名称】

1.仕切が谷(しぎやりだん)
昔、亮と左衛門の二人が笹川へ始めて入り土地を開いて居住したと言う。
亮は竹内家の祖先、左衛門は長井家の祖先で、彼等は谷々の土地の所有を定めるに当たりその境界地の谷を仕切が谷と名付けた。その年代は不明である。

2.地躍り(じようど)
前記開村の二人が笹川に永住することを祝福し夜の更けるのも忘れて地躍りをしたと言う故事に基づいて名付けられた地名である。

3,佐渡谷
笹川開村の一人、左衛門がこの谷の入口に居を構えた所の地名で、これより推定して佐渡より渡って来たものでないかと思われるがその資料はない。

4.田中
三番目に入村した三郎左衛門は小林家の祖先で、佐渡より来たため佐渡三郎左衛門と呼んでいたのを、後に小林と称するようになった。現在、字田中に住居があり、三基の五輪塔を構えた地神がある。また小林家の家名を今でも地元の人は田中の家と言っている。

5.最禅
四番目に入村した与兵衛は、堀内家の祖先で家名の由来は屋敷内に堀があったので堀の興兵衛と称していたが、後に中絶し後世に至り九郎兵衛と名乗った。
最禅と印した瓦も発掘されている。天正13年宮崎城の小塚権太夫なる者最禅坊に入って剃髪し、後真宗に帰依し教如主の弟子となり名を宗念と改めた。その子、二代宗念は元和五年に正覚寺という寺号を授けられた。

6.尻江
五番目に入村した五郎右ェ門は、深松家の祖先で中途故あって五郎右ェ門の家名を他に売却したが前記の掘の興兵衛が中絶したたのでその家名をつぎ字尻江に居を構えた。
尻江は笹川本流を隔て、護摩川原(胡麻柄)を対岸に見下す段丘に位置し竹内家の地神がある。

7.金屋谷
六番目に入村した六郎右ェ門は、折谷家の祖先で金屋谷より来た為に落合と言い、後に折谷と変えた。現在、金屋谷入口に形づくった集落は神向部落と称し、殆んど折谷の姓を名乗っている。

8.宇津谷
七番目に人村した七郎左工門は、宇津家の祖先で能登の宇出津より来た為に宇出津と呼び、後に宇津に変わった。そしてその所領地を宇津谷と称した。

9.地神田
前記の宇津家の旧屋敷のあった処にて宇津谷の入口(現在第二部落火葬場)に居を構えたものだと言い伝えられている。宇津家の地神は佐渡谷川が笹川本流に落合う所、宮田地内にあるが昔はここに地神があったので地神田との地名が付いたようだが不明である。

以下は、下(海側)から上(山側)に向かって順番に並べてあります。(10~52項)

10.六郎山(および蛭谷)
六郎は、轆轤(ロクロ)の当て字である。昔、近江の国小椋村小椋、蛭谷などの住民が、「日本国中轆轤木地の生産のためなら自由に宮木を伐採しても良い」という綸旨を貰って各地で木地を生産していた。六郎山は、それによる名称である。笹川地区内にある蛭谷と言う地名もその轆轤師の人達が居住せる所によるものでなか。また、大平部落にも六郎山という地名がある。

11.へッツリ
笹川へ入るとき第一番目に通らなければならない難所であった。岩山の崖に細い山道がわずかに通り、下を見れば笹川の急流が岩をかんで流れ恐ろしい所だった。明治の頃、魚津の町から寺に迎えられた御新造は、このへッツリで淋しさのあまり涙を流され。この奥に本当に人家があるのかと問われたと、今に至るまで流され語りつがれている。
「下新川郡史稿」に「宮崎村の元屋敷より笹川村に達する道路は明治28年の開通に係る延長22町巾9尺村費支なり」と記されている。
昔はこの岩崖と折谷孫助所有の田との問に巾9尺、長さ2間の木橋が架けられ、ヘッツリ橋と呼ばれていたらしいが、今はない。

12.一ノ坂
笹川へ入る時、へッツリの難所を過ぎると昔は現在の城山登山道を少し登り落屋へ下りる坂になっていたので一ノ坂の地名が付けられた。宮崎城の大手門祉とも言われている。一ノ坂にある仏像は、昔弥与松と言う人が大洪水の後今の渕尻あたりの川原を歩いて居ると仏像を印した大きな岩が水たまりのそばに立ち水に写っている仏の姿がさんぜんと光り輝いているのを見てそれをへッツリの岩崖に洞窟を掘り安置申し上げ礼拝していたが後現在の一ノ坂に移し崇拝したものだという。

13.鷲野平
宮崎城の武家屋敷のあった所にて過去に家敷の礎石など発掘されている。

14.落屋
大溝谷川が笹川本流に落合う所からきた地名と思われ昔からこのあたりは、狐狸妖怪の出るところと村人から恐れられていた。ある時、ここを通りかかった年寄りが自分の前を歩いて行く狐に出合った。年寄りは面白半分に一つびっくりさせてやろうと思いソット近づき大声で叫ぶと狐は三尺程飛び上がってびっくり仰天あわてて宮谷の方へ逃げて行った。
家へ帰り早速隣近所の人達に面白可笑しくその時の狐のあわて振りを語って歩いた。翌朝、年寄りは早く目覚めたのでお茶を飲もうと囲炉裏のそばへ来て見ると囲炉妻の中に山のように狐の糞がしてあった。おどかされた狐は仲間の狐を呼び寄せてその年寄りに仇を返したのだと今でも古老の人々に語りつがれている。

15.美ノ輪
古来より諏訪杜の神事を司どる神氏を、三輪と称することにより氏の格式を保持しておりその居館跡は辻ノ内、美ノ輪、又大字蛭谷地内に美野輪なる地名がある。

16.一反田
開田したときの開田仲間の人達が一戸当り一反 あて配分したための地名で、東京都の五反田も同意昧である。大字月山に二反田、大字道下に四反田、大字泊に五反田という地名が現在でも残っている。


17.宮の陰
昔、長井氏一族が正八幡の神を祭った所(現在の手取田、渕尻)で、後その社殿の腐朽が甚だしい為一時御霊代を諏訪社に遷したがそのままとなり諏訪神、十二社権現の神と共に社殿を供にして項.在の諏訪神社に祭られるようになった。

18.渕尻
現在の手取田、渕尻のあたりに宮の陰なる地名があり、現在笹川本流の流れも変ったので今はなくなったが、昔はその付近に大きな渕があり村人は「宮の陰の渕」と呼んで、子供達の格好の水遊び場だった。と古老達が言っているので渕尻の地名もその渕から来た地名である。

19.池の谷
最禅より少し山へ登りつめた山の凹地に池があり人々は池ノ谷の池と呼んでいる。昔、池の谷の池の東の方にある有山に化物がいて農作物を荒らして村人を困らせていたが、ある晩池の主の大蛇と有山の化物とが格斗となり一瞬雷鳴がとどろき大豪雨となり化物が退治されたと言いその時の格斗で池と有山の問に深い谷ができたと語りつがれている。なんでも池の谷の大蛇は神の化身であったという。

20.宗左ェ門大門
仕切ケ谷川が旧笹川本通り(現在の本通に非ず)を横断する所を、宗左ェ門大門と昔の人は呼んで居た。現在でも仕切ケ谷の近くの所に長井宗左ェ門家の墓地がある。

21.有山(アリヤマ)
“あり”とは古語で山という意味で、昔より「あり」と呼んでいたのが「ありの山」になり、あり山に変わったものと思われる。神戸市にある有間温泉(有馬温泉)の有と同意味である。

22.菖蒲池(民話)
笹川と旧南保村の越部落との間の山の上にある池にて、昔越部落にある大きな豪農の家に1人の女中がいて山の上の菖蒲池より清水を汲んで来るのが彼女の仕事であった。やがて同じ家に働く作男と彼女は恋人になってしまった。ある夏の暑い日、女中は池より水を汲んで戻ってくると、その作男はのどがかわくのでその水を飲ませてくれるよう求めたので女中は桶のままその男に飲ませようとしたはづみに誤って桶を引っくり返し汲んで来た水を全部こばしてしまった。始めから二人のすることを心良からず見ていたその家の主人は女中を呼びっけ、ひどく叱りつけ家より1人で出ていくように言い渡した。これを聞いた女中はひどく悲しみ、やがて山へ登り菖蒲弛へ身を投げてしまい、それよりその池に毎 年きれいな菖蒲ほ咲くようになったという。そしてその後死んだ女は鹿の姿になり作男に会うために池からL山道をつたって望へ下りて来るようになり、そのとき鹿が通った道あとどおりに美しい菖蒲の花が咲き里人は「お菖蒲さ」が出て来たと言うようになったという。

23.宮田
諏訪神社に献ずる穀類(米、粟など)を作った所で、御田植の神事等も行われた故の地名であろう。

24.護摩川原(胡麻柄)
京都八ツ橋聖護院の門跡准后が、北国巡行の文明18年に供人と共に宮崎城下に泊まられたと記録にあり、大平地区に山伏、胡麻峯、行谷、などの地名が現在でも残っている。山岳崇拝の修験者集団の影響が笹川地区にもあったものと思われ、祈祷の折必ず護摩を焚く宗教行事を行ったが、そのことにより名付けられた地名であると推測されている。

25.諏訪
竹内、堀内、深松、の三氏は、諏訪大明神を宮平に拝殿を建て鎮祭したが、拝殿の奥にそびえる山や森、神木、岩などそのものを神としてあがめ奉った。神社の建物が出来たのは後になってからで宮という言葉も御家(尊い御方の家という意)から宮に変わったもので今でも尊い御方のことを宮家と称するのもこのためだという。

26.社家(シャガ)(社迦)
諏訪の神事に奉仕する者の居住跡にある地名と思われる。熊野系統の神事に奉仕する氏の居館跡については社家(シャガ)と呼ばずに社家(シャケ)と呼んでいる。

27.的場
諏訪神に対する神祭行事の一つである流鏑馬(ヤプサメ)などの行われた跡から来た地名であると思われ大字横尾や旧南保村にも的場なる地名が現在でも残っている。

28.神の上(カミノアガル)
諏訪神社の祭事に際し神前に献上する野菜などを作った所のため、神の上なる地名が名づけなれたという。

29.御座谷(ゴザタニ)(五十谷)
御座とはどの神仏に限らずこれを「祭ったところ」という地名で、三重県には御座岬、御座湾、御座村、なる地名があり、笹川では通称「ごぢやだに」と呼んでいる。

30.橋場
諏訪の山と権現山の崖が笹川本流にせり出した箇所は昔より対岸の神向部落や神の御前田、加順坊へ渡る格好の場所にて吊り橋の加護に最も良いため橋場と称されるようになった。

31.権現
折谷、小林、宇津、の三氏は十二社権現山の頂上に社殿を建て鎮察していたが前記の正八幡社と共に一時御霊代を諏訪社に遷したがそのままとなり現在の諏訪杜に合祀されるようになった。


32.道満(トウマン〉
アイヌ語のトマウ(粘土地帯)の言葉から来た地名で、トマウがトウマンに変わりそれに漢字を当て、道満の地名が生まれた。北海道、東北地方にこの地名が多く見受けられる。

33.厳座(ガンザ)(雁蔵)
笹川開村の七人は、七人の同苗と言って村人より尊敬され特権も有していたがその同苗衆の一人折谷氏は、笹川源流に三山並び立つ厳壇の山体を神の山として尊崇礼拝し笹川本流と四倉谷川の合流点である雁蔵周辺に居を構え集い合ったものと伝承される。そしてその祭場を厳座(現在の雁蔵)に置いたものと推定される。

34.古屋敷
昔、七重滝谷川が四倉谷川と落合う所に四倉の家(長井宗左ェ門家)の屋敷があった。現在でも村人は古屋敷と称している。

35.四峅谷(シクラタニ)(四倉谷)
四峅谷の峅という字は岩山の崖という意味にて四倉谷には雁谷、にようぷろ谷、七重滝谷、おくら谷、の四つの崖谷があるための地名にて、立山町、岩峅寺や新潟県の赤峅(赤倉)京都の峅間山(鞍馬山)又神奈川県のかめ峅(鎌倉)の峅と同意味にて倉は瞬の当て字と思われる。

36.四峅間田(シタラマタ)(四倉俣)
四倉俣なる地名は四峅間田から変わって出来た地名で、岩山の崖の問にある田という意味である。

37.印田(インデン)
印田は位田(エデン)の当字にて位田とは昔、位階によって授けられた田という意味である。

38.穴かま(穴釜)
昔は現在の清水平、穴釜方面を総称して穴がまと呼んでいた。その理由は現在の清水平の公図に記載してあるとおり、穴があって昔はほら穴のことを「かま」と称し神奈川県のかま峅(鎌倉)もほら穴のある岩山という意味にて笹川の穴がまは後に清水平と小字が分離され穴釜という当字を用いて台帳地名が生まれたものである。

39.三峰(ミツボ)(水坪)
土地台帳では水坪になっているが村人は「みつぼ」と呼んでいる。昔は三峰に善平、次郎平、なる人が住んで農耕をしていたが後、池の原部 落へ移住したものだと言い、今でも池の原の吉田清氏の家名を「みっぼのぜんべいどん」と村人は言っている。

40.石谷
現在の笹川地内ヘ昔、奥石谷や池ノ原の在住者が来て耕作していたもので、明治初年頃土地台帳作成当時それらの土地は大字石谷として処理され笹川地内にある石谷の飛地と言われていたが、後これらほ全て大字笹川へ編入されそれ以後、編入地と言われていた。そして小字名は東広田、西広田、山広田、水坪、などとなっていたが後これらを全部石谷という小字名に改められ現在にいたっている。

41.産土山
村の人は「おばすがやま」と呼んでいる。古来よりどこの村にも村づくりの神として産土神を祀る習慣があったが、笹川の産土山も現在も諏訪神社の社領地として台帳にのせられおり、村のきまりで斧止め地域指定している。台帳上の字名は、清水巌となっている。

42.杉谷
谷の奥には普より天然の杉林があった為の名称であろう。また急峻な谷であるので「さかさま谷」「逆谷」の別名もある。谷の入口にある観音岩は高さ約七米程の天然石にてその立てるさまほ観音像によく似ているのでこの名がある。笹川発電所建設のとき、この岩に鋼鉄線をとりつけ向い岸の岩との問につり橋をかけたところ一夜にしてその橋は落ちてしまい人々は観音様の怒りにふれたためと恐れおののいたと今に語りつがれている。

43.遠野(トオノ〉
アイヌ語のトーヌプ(湿地のある意)にもとづく地名で、笹川の遠野も湿地が多い所だったの遠野と言っている。遠野は当て字である。

44.駒返し
杉谷の奥にあり、けわしい山道がある地帯のため生れた地名であろう。旧南保村地内に馬返しの地名があるが、同意味と思われる。

45.あずかり谷
村の共有地に開田耕作しても直ぐに個人所有の権利を認めてもらえず村より一時預かり地として利用していた名残りの地であり、現在この谷の奥に標高四百米から五百米地帯にブナ、ミズナラ、サルスベリ等の美林があり地質学上貴重なものとされている。穴群などが発見されている。

46.七郎右ェ門渕(民話の項参照)

47.おせん落とし(民話の項参照)

48.十二人組の坂(民話の項参照)

49.一足とびの背戸(民話)
七郎右ェ門渕の少し上流に両岸がせまって、一飛びに向こう岸にとべるような岩山の崖があり、そこに昔大きな欅の巨木があった。人々はその欅を切ると罰があたると言って誰も斧を入れる者はいなかった。或る日、村一番の剛胆者といわれた与三五郎が、炭焼きの原木が不足したのでその欅を切り倒し炭焼きかまどに入れてしまった。小屋に泊まった真夜中に与三五郎は炭焼きかまの様子を見るため外に出て見ると、かまから物凄い勢いで日焔が昇りその日焔に興らされてキラキラと光るものがあるのでよく見るとそれは物凄い大蛇の両眼であった。そして大蛇は真赤な色に輝いた長い舌で焔をペロペロとなめていた。さすが剛胆な与三五郎でも腰を抜かさんばかりに驚き真っ暗な山道を飛ぶように村の方へ走った。途中まで来ると道の真ん中に大きな丸太が横たわっている。おかしいと思ったが肝っ玉の太い彼はままよと目をつぶって一飛びに大蛇を飛びこえ村へ逃げ返った。それよりその大きな欅の生えていた崖を「一足飛びの背戸」と呼び、その下にはよどむ渕を「長渕」と言うようになった。

50.ザラ向
笹川の奥地にある一ノ谷地内の安山岩で出来た山肌が永年の風化作用でもろい岩質に変わったために生じた地名と思われ、佐々成政の故事で有名な立山のザラ峠などの地名と同意昧のものと推察される。

51.五枚尾
文化十二年四月に十村役伊東次郎左ェ門より郡奉行所へ加賀藩国境取締りの状態を報告した文書に依れば、笹川より大平へ抜ける山道の途中に五枚尾なる場所に出る。五枚尾までは笹川の持山にてそれより大平村の持山になると記されている所をみると五枚尾は昔から大平へ行く山道の要所であったと思われる。


52.入山(入会山)
笹川部落民の入会権を有する共有山林にて昔はブナ、ミズナラ、シナ、エンジュの大木がうっそうと繁茂する山であったが、人口の遂次増加するに従い食料の欠乏を来たしたので、薙畑と称して草木を刈り払いこれ焼き、ソバ、妻、小豆、などを作り食料とした。そして漸時奥地へ作付けするようになりそれに加え、炭焼き、大呂切を生業とする者も増加して拡大な入会山も荒廃するに至った。明治22年に至り村民もこれに目ざめて大俣の出合腰掛石、鷹ノ巣、の線より奥地を個人の斧止め地域と定め共有山林の荒廃防止につとめた。