民話 その2

観音岩と弁慶のなたいこ岩

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さゝ郷に縁結びスポットとも言える場所がある。
観音岩、弁慶のなたいこ岩(なたいことは、鉈を納めるケ-ス)、そして産土山(うぶすなやま:さゝ郷では、「おぼすがやま」と読んでいる。)である。
 撮影ポイントの関係で三体を一緒に撮影出来なかったが、左から弁慶のなたいこ岩、中央が産土山、右か観音岩である。縁結びに想いを馳せる人は是非一度尋ねて下さい。

観音岩
笹川の奥に三峯への分かれ道があるが、それより上流およそ1Kmはどのぼると視界がひろがり、右手にあたかも観音菩薩像の姿に似た大きな岩が立っている。通称観音岩と呼ばれている。 その観音宕の地上3mほどのところに岩棚があり、そこに二体の石仏が祀ってある。
60㎝と70㎝の大きさの11面観音菩薩像である。

 昔、石を出したとき石切り職人が掘ったともいわれているが、はっきりしない。
 大正9年、笹川発電所を作ったとき、水路取入れ口が、この観音岩の附近だったが、向う岸へ渡る橋がないので、観音岩と対岸の大きな岩と岩盤に穴をあけて吊り橋をかけた。

 当時の村総代折谷さんが、吊り橋の完成した翌朝、顔を洗っていると急に鼻血がふきだした。「村に何か変ったことがあったのでは……」と何か不吉な予感がした。
「そうだ、きのう出来上った吊り橋をみてこよう。」と息をはずませ山道をかけのぼった。きのう完成したばかりの立派な吊り橋が無残にも傾いていた。
よく見るとワイヤーをつないだ対岸の大きな岩が動いているではないか。村総代は、へなへなとその場に坐り込んだ。「どうして、あの大きな岩が動いたのだろう。そうだ、あの観音像の背中に穴をあけ、二本のタガネを打ち込んだたたりにちがいない。」

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村総代は一目散に村にかけおり、村人たちを集め、吊り橋が傾いたことを話した。そして、石仏の『たたり」 のことをつけくわえた。
 村人たちは一瞬、シェーンとした。やがて、だれともなく「石仏のたたりだ。」「吊り橋をとりはずそう。」「そうだ、そうだ。」という声がささやかれ、その場で取りこわしが決ったのである。

 昭和44年、この杉谷の水害で土砂くずれがあり、災害復旧工事の際に道路の改修も行った。
観音岩を半分ほど埋めて道路をまっすぐつけ便利にしようという案もでたが、やはり、吊り橋のたたりが恐ろしく、観音岩から2mほど離して道路をつけることになった。
 吊り橋をかけるときにあけられた穴には、草花が茂って石仏は何事もなかったかのように今も鎮座しておわす。

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弁慶のなたいこ岩

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からつや地蔵

宮崎焼の昔をしのび

(富山新聞 昭和58年4月10日より転写)

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 江戸末期に近い文化年間(1804年~1817年)に、朝日町元屋敷の九谷地内で盛んであったとされる宮崎焼きの由緒を伝える【からつや地蔵】に地権者の同村笹川、会社員長井隆男さん(55)が御堂を贈り、11日午後4時半から落慶法要が営まれる。
「からつや地蔵」は、台座を含め高さ60センチの石仏。柔和な表情で合掌した姿は素朴そのもの。
当初は、県立自然公園城山の北西側山麓に有ったが、ほ場整備のため一時、長井さん宅庭に仮安置されていた。
しかし、ほ場整備が完了したので陶業に打ち込んだ陶工たちの霊を慰め、越中陶磁史の一ペ-ジを飾る町の歴史的資料、観光資源にも約立てばとの願いから、九谷地内に小さな御堂を建て安住させた。
 安住場所は元の場所から約30メ-トル離れた町道べりで、笹川の清流を望む個所。

高さ1メ-トル、60センチ四方のコンクリ-ト造り、木の格子の扉のついた堂の中に据え付けられ、以前の
様に風雨にさらされることもなくなった。
宮崎焼きは城山頂上にあった宮崎城のからめ手になる九谷に登り窯を築いて焼いたと言われる。ロシア船が日本の近海に現れ、通商を迫った際、海防を厳重にするため宮崎城の見張りを強化した頃から栄え、城の生活雑器を焼いた。
 また、地元泊の素封家として知られた文化人の小沢家が焼いたなどと伝えられる。県内小杉焼きの言い伝えにも、宮崎村の人が小杉焼きの初期に陶法を教わり帰って陶業に従事したとあるとのことで、いつ、だれが、どうして建てたか判らないが、百数十年ぶりに地蔵さんも安住の地を得た。


注釈:『ほ場整備』土地改良総合整備事業.
『落慶法要』本尊である仏像(または曼荼羅など)を安置し、本尊に魂を入れる儀式として開眼法要を行うこと。
『素封家(そほうか)』 財産家。大金持ち。「素」はむなしい、「封」は領地。 領地や官位を持っていないが、非常な資産家。

菖蒲池

 笹川と旧南保村の越部落との間の山の上にある池にて、昔越部落にある大きな豪農の家に1人の女中がいて山の上の菖蒲池より清水を汲んで来るのが彼女の仕事であった。やがて同じ家に働く作男と彼女は恋人になってしまった。ある夏の暑い日、女中は池より水を汲んで戻ってくると、その作男はのどがかわくのでその水を飲ませてくれるよう求めたので女中は桶のままその男に飲ませようとしたはづみに誤って桶を引っくり返し汲んで来た水を全部こばしてしまった。始めから二人のすることを心良からず見ていたその家の主人は女中を呼びっけ、ひどく叱りつけ家より1人で出ていくように言い渡した。これを聞いた女中はひどく悲しみ、やがて山へ登り菖蒲弛へ身を投げてしまい、それよりその池に毎 年きれいな菖蒲ほ咲くようになったという。そしてその後死んだ女は鹿の姿になり作男に会うために池からL山道をつたって望へ下りて来るようになり、そのとき鹿が通った道あとどおりに美しい菖蒲の花が咲き里人は「お菖蒲さ」が出て来たと言うようになったという。

一足とびの背戸

七郎右ェ門渕の少し上流に両岸がせまって、一飛びに向こう岸にとべるような岩山の崖があり、そこに昔大きな欅の巨木があった。人々はその欅を切ると罰があたると言って誰も斧を入れる者はいなかった。或る日、村一番の剛胆者といわれた与三五郎が、炭焼きの原木が不足したのでその欅を切り倒し炭焼きかまどに入れてしまった。小屋に泊まった真夜中に与三五郎は炭焼きかまの様子を見るため外に出て見ると、かまから物凄い勢いで日焔が昇りその日焔に興らされてキラキラと光るものがあるのでよく見るとそれは物凄い大蛇の両眼であった。そして大蛇は真赤な色に輝いた長い舌で焔をペロペロとなめていた。さすが剛胆な与三五郎でも腰を抜かさんばかりに驚き真っ暗な山道を飛ぶように村の方へ走った。途中まで来ると道の真ん中に大きな丸太が横たわっている。おかしいと思ったが肝っ玉の太い彼はままよと目をつぶって一飛びに大蛇を飛びこえ村へ逃げ返った。それよりその大きな欅の生えていた崖を「一足飛びの背戸」と呼び、その下にはよどむ渕を「長渕」と言うようになった。