ことわざ伝説

市平衛サの使い

 昔、正覚寺に市平衛と言うとてもあわて者の出入り人がいた。
 ある日、お寺のゴンゲハンに「明日、富山まで飛脚に行って来てくれ」と頼まれた。元より嫌と言う人ではない。快い返事をして家に帰った。
 あくる朝、空も白まぬなかに、手甲、脚絆に弁当と言う飛脚姿で出発した。 そして昼ごろには富山(東別院)へと着いた。
 そこで用件をたそうとしたが、サテなにやら解らない? それもその筈、用件を聞いてこなかった!!
お腹も空くにサテ、昼飯でもと弁当をひも解くとそれはなんと枕でないか。また脚絆も片方どこに落としたのか片足だけだった。
 ションボリと家に帰ってみるとなんと片方の脚絆は、アマ(2階)へ上る梯子に履かせてあったとのこと。


いちべさ.jpg
信恵ちゃんの【笹川むかしむかし】より

助松サの道中

 昔、助松と言う一風変わった人が居られて、道中するときはいつも人より一足先に出発して行き、先の茶屋で一服すって皆が来るのを待って居られた。
 やがて皆の衆がフゥフゥ言って追いつき、「ア-疲れた、さて一服」と腰を下ろすかおろさぬさきに、「ヤ-いらすたか、サァ-行くまいか-」と立ち上がり、トットと先に行く癖だったそうだ。
 だから今もこんな事を助松サの道中と言うそうな!


弥与松サのテッポウ(鉄砲)

 弥与松さの孫じいさまのこと。日本と外国との間で大きな戦さがあった頃の話である。
 ある冬の日、凱旋の手柄話で宿は賑わっていた。
その席で弥与松サの言うことには、日本が勝ったのは『テッポウが優秀で、撃った弾がみな当たったからじゃ。』 『そないなこたぁない』と言えば...『いやホント、山の向こうの敵に撃つと必ず当たったが。』 『そこに敵がおらなんだらどうすらじゃ。』 『わからんかのう~、おらんにゃもう一つ山を越えていって当らじゃがい。』といわれたと言う。それくらいのラッパであった。
 それにしても弥与松サの頭には明治時代にして既に誘導弾があった...とは恐るべき予言である。
あ~、なにと天才であったことか。...
 かくして、後の人はそれいらい大きな話を【弥与松サのテッポウ】と言っている。また、その人を別名【千三ッ】とも言っている。

仁ェ婆のコブ(昆布)

 昔、仁ェと言う家があった。その家の婆さんが昆布を売っておられた時に、十銭(昔の貨幣単位)出しても二十銭出しても昆布の量が同じだったそうだ。
 どういう訳か...計算するのが面倒だったのか、計算出来なかったのかは定かではない。?
 たとえば労務で一日働いても、半日の働きであっても、一日働いたことにする事を【仁ェ婆のコブ】と言っている。

学者 六助

 昔、身の丈六尺の大男、体格の立派な六助と言う人がいた。
字を読むことが出来たので皆が”学者”と呼んでいた。
当時は、一般の人が字が読めなかった。
だから手紙が来るといつも読んで貰っていた。
時たま解らないのがあると、「今は忙しいからそこに置いていかっせ」と人を帰しておいて、あくる朝、誰もおきない内にセッセと泊まで行き習ってきては人に語って聴かせたという。
新潟方面へ出稼ぎに行って田圃掘りを請け負って仕事をしていたが、一間四方それ一坪、二間四方それ二坪、三間四方それ三坪と言って働いたらすこしも儲からなかったそうだ。
それがどうしても解けなかったと言う。
(注:一間四方 一坪、二間四方 四坪、三間四方 九坪)

五右エ門の甘酒

 今から何十年前か昔....善光寺参りに行かれた五右エ門の婆さんが刈萓堂への登り口で、名物の甘酒屋が店内から「甘酒飲んでいかっしゃい、飲んでいかっしゃい...」の声に田舎心の純真さから無料と早合点、頭をペコペコお礼を言いながら何杯も飲み、さて「ごちそうさま」と店を出ようとすると勘定を請求された。
遠慮しつつ気の毒して戴いたのは後の祭りであった。
これによく似た話を、今も『五右エ門婆の甘酒』と里の人は言っている。

ネェ-マのあやまち(怪我)

 昔、ネェ-マと言う人があり、この人が身体に少々の傷でも受けたならば、大怪我でもしでかした様に重傷の手当をされた。
人が心配して同情を寄せ見せて貰うと、大きく巻いたホ-タイの中に小さい小さなかすり傷。

 今でも子供が手に小さな傷をつけて痛いと泣いているのを、親が「なんだ、ネェ-マのあやまち」というぐあいに言っている。

甚右ェ門の夜這い

 昔、男ありけり。名は甚右ェ門と言う。常日頃心にくからぬ女ありけり。
ある夜、その女の元で遊ぶことを決意せり。心にくからず思う女なれば、好かれたき心上の念に、身繕いを大いに気にせり。
一風呂も二風呂もあび、とぼしい灯りにも髭をその、眉を書き、白粉をぬり、紅をさし、髪を結い直し、長持ちをさぐり、一張羅を引っ張り出しおのが身を引き立たさんと努めたり。
 身繕いに満ち得るまでは、しぱしの時を得たり。やがてほっかむりをしてそっと裏戸を押し出れば、折りも一声”コケコッコ”と一番鶏の声。
時すでに遅く、東の空は白んで夜這いとはいかなくなった。

その様に、段取り(準備)の長い事を、皆は『甚右ェ門の夜這い』と言うようになった。