笹川の地名

笹川を通る街道

大和時代の日本海沿岸

 北陸地方の範囲は、新潟県から福井県まで東西におよそ400kmあり、細く長い。歴史的に古代の「越国」と呼ばれた地方を多く含み、若狭国から越後国までの範囲におよぶ。明治時代頃までは「ほくろく」と読まれていた。この北陸地方の道路を指して「越路」「北陸道」と呼ぶ事もある。
北陸地方は、「日本海沿岸の地方勢力」として、他の地方からは半ば独立した歴史を歩んで来た。
 越国は、ヤマト王権の勢力に組み込まれると三つの領域に区分された。令制国の国府所在地を見ると、越前国は武生、越中国は伏木(高岡市北部)、越後国は直江津(上越市北部)に当たる。
 この国府所在地の位置により、当時のヤマト王権の支配領域は、東は概ね新潟県の上越地方までで、それ以北は領土外(蝦夷)であった。

しかし、後に支配領域を伸ばすと、北は天険たる鼠ヶ関(ねずがせき;山形県鶴岡市)と東は越後山脈が北陸道の北限となり、その中に越国から分離される形で出羽国が設置された。
 黄金の国・平泉寺は、能登国が越前国から分離した頃に開山し室町時代末期まで巨大な宗教都市として勢力を誇った。

笹川の歴史を紐解くうえで、総合的に判断すべきは、軍事、通商、宗教であると思っていますが、
 古代日本で最初の全国通運ルートを開拓したのは出雲政権で軍事的には蝦夷討伐、通商的にはヒスイの勾玉類の宝石および塩の通商権、宗教的には祖霊崇拝の出雲信仰の布教であったと思われる。
 また、646年大化の改新の詔に駅伝制を布く旨の記述があります、これを契機として計画的な直線道路網が全国的に整備され始め新川郡から頸城郡(青海辺りまで)にも8つの駅が出来ました。
 新川郡佐味駅はどこにあったかは特定出来ていませんが宮崎の常福寺遺跡あたりに置かれ、佐味荘の中心もあったのではないかと推測しています。笹川も佐味荘に含まれていたと考えています。各駅には馬が登録されていて佐味駅では馬 8疋でした。



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