hondou900.jpg

歴史

八幡山(現・城山)の宮崎城は、戦国時代には、新川群に侵略しようとする越後・上杉氏と対峙する最前線の城であった。
 天正5年(1577)織田氏が北陸へ侵攻し、佐々成政の富山城の支城となった。
 天正13年(1584)本能寺の変以降、秀吉から離反していた佐々成政討伐の戦いが始まり、秀吉の命を受けて上杉景勝が新川郡に進入し宮崎城を陥落させた。
 翌、天正14年(1586)に前田家の高畠織部が入城、そして天正15年(1587)には小塚権太夫が入城し治めることとなり宮崎城を巡った攻防戦が終焉を迎えた。

 しばらくして、信仰心の厚かった宮崎城主・小塚権太夫は、菩提寺の最禅坊で剃髪して仏門に入り、のちに真宗に帰依して大谷派12代目法主・教如の弟子となり、名を宗念(第一世)と改めた。
 慶長8年(1603)、江戸幕府が開かれると、幕藩体制の確立の一つとして農民として土地に定着させる政策の強行があった。
 それに反抗すると、幕府は内部対立による主導権争いを誘発させ、その混乱に乗じて強権の圧迫などで容赦のない粛正を行った。

しかし、笹川においてはそのような記録が無いことから、この混乱を起こさず収拾を容易にした役割を担ったのは、幕府による宗教政策(檀家制度)と、小塚権太夫による信仰共同体と言う一村体制施策ではなかっただろうか。
 小塚権太夫は、宮崎城主と言う格で村人を引きつけ、寺に神鏡を置かせることで【仏主神従】により、三つに分かれていた氏神祭祀の形骸化を行ない、仏教による信仰共同体という一村体制を構築しその混乱期を乗り切ったものと考えられる。

 第二世・乗念は、元和5年(1619)に寺号を受け、真宗大谷派の寺院・篠渓山正覚寺と称した。
 当代は第十七世・弘道である。

088.JPG090.JPG

 山門及びめぐりの石垣は城壁を思わせる立派なもので往時の権威を示すものである。
 寺院内には城山臼ケ谷古墓遺跡から出土した殊洲焼の大がめや遺骨等が安置されている。
   (一部、まいぶん館で保管)

1001-1280.jpg

 庫裡裏には自然の地形を利用した庭園があり、江戸時代の茶人殿村洗心の作と言われている。
 庭園続きの上部は、老杉の下に続く石段を登りつめると墓地群になっており、そこにある池はモリアオガエルの群生地である。
 諏訪山の上部岩場から引いているお寺の水は山岳修験の修験者に、仏の聖水として尊ばれて、水口(みずくち)の水」と呼ばれた昔からの名水である。