はじめに

奈良時代の743年(墾田永年私財法の制定)~
794年(佐味庄が西大寺領として開かれた)間と推定するに至った。

 笹川に入植した長井氏、竹内氏の先祖は、300~400年頃、大和朝廷の命を受けて東国の平定に当たった豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)の家臣団、佐味朝臣一族の郎党である。
 彼らは当時日本海側辺境の東端であった境、宮崎に入植し防衛と開墾の任にあたった。
そしてその地は一族の姓から佐味荘と言われた。(注:西大寺荘園の佐味庄とは別モノ。)

 長井氏、竹内氏は大谷川伝いと海岸線の山側に田圃を開墾し、だんだんと大谷川を上り山側に入って開墾地を拡大した。そして、長井氏は西裏谷の開墾を行い更に諏訪山の尾根を越え佐渡谷の開墾を行いながら笹川に達した。一方、竹内は大溝谷を開墾しながら下流へと進み笹川に達した。
宮崎に笹川在住の人の田圃が有ったのは、開墾当初の名残りなのかも知れない。
(海岸側は、奴奈川姫-大国主命(出雲)に繋がる水軍の水島一族が宮崎~境~糸魚川を担当した。)
web-nara.jpg

 笹川史稿によれば、長井氏、竹内氏は笹川に到達した後、仕切谷と地躍を結ぶ線の北側を竹内、南側を長井が開墾することとした。と記載されているが、
 実際には、常福寺平にあった才の神(後述)と地躍を結ぶ線であったと推定する。仕切ケ谷はその線上にある。
 しかし、南側は神向きまでであった。それより南側(現在の諏訪地区の一部と盈進地区)には、既に狩猟などを主要な糧としていたのちに折谷と名乗る一族が勢力を張っていたからである。

 入植した時期は、冒頭に記した通り奈良時代の743年墾田永年私財法が制定され、開墾した土地が自分のモノになる公地公民制度の瓦解と~794年佐味庄が西大寺領として開かれ佐味一族の拠点が宮崎から現在の大屋に移った時期と推定するに至った。

それから1182年に北陸宮、木曽義仲が登場するまでの間、笹川は三氏(長井、竹内、のちの折谷)が開墾し棲み繋いだ人達の間で稲作や狩猟の技を互いに教えあったり、また結婚などを通じて融合しながら生活を営んだ時代であった。
表向きが折谷、中向きが長井、裏向きが竹内の姓が多いが、所々に他の姓が有る。例えば七重滝川ぞいの菖蒲平(しょばだら)に長井姓がある。これは、長井氏と折谷氏が、長井の開墾地であった西裏の一部と、折谷の開墾地であった七重滝川ぞいの菖蒲平(しょばだら)から石休場(いしゃすんば)までを交換したためである。菖蒲平(しょばだら)に棲んだ長井宗左衛門(四倉)は村の入り口の番人を努めたとのことである。
 (余談:裏向きに長井姓が有るのは、この時代ではなく
木曽義仲が手取田付近に正八幡社を建立し、宮守を一緒に来従した長井**(清佐エ門)にした為と言われている。)

 堀内、深松、小林、勝田および宇津は、いずれも鎌倉以降、むしろ戦国時代を通じて笹川に隠遁した武士の末裔と考える。

 笹川史稿によれば、折谷六郎兵衛が6番目に来住し、折谷の氏宗と記載されているが、実際には、先住民の津右衛門(雁蔵)、佐次兵門、孫右衛門(三社合祀後、諏訪神社の宮主)、六兵衛の四家が何かの理由で後から入植した六郎兵衛を氏宗として祭り上げたのではないだろうか。

◆めぐみ豊けき黒菱山(くろびし)の不壊(ふえ)の姿にならいつつ

黒菱山と笹川の姿は、1600年くらいでは変わらないのだろう。 1600年前とは西暦400年頃だ。
 その頃の笹川辺りはどうなっていたのか?日本の歴史では、古墳時代(350頃~700年頃)に当たる。古墳時代の象徴である前方後円墳は、600年には、九州から東北まで分布していたと言う。
 境の大谷川の上流にある常福寺古墳は、前方後円墳のひとつである。常福寺古墳は何時頃、誰によって造営されたのかは未解明だが、西暦350~600の間にはできていたことになる。  高台である三峰、北野にも、海辺の宮崎-境沿岸にも多くの縄文遺跡があったことは有名だ。縄文時代は、約10000年前から約3000年前まで続いた時代で、その後に弥生時代と画される時代が縄文時代と古墳時代の間にある。
 縄文時代にも古墳時代にも笹川辺りには人が居たわけだから、多分弥生時代にも住んでいただろう。もしかするとある一族が子孫代々を引き継いで、もしくは様々なルーツの異なる人々が移り住んで来て、この地には人々が住んでいたことになる。

Wed-003.jpg

古代の歴史をもう少し詳しくみていくと、
①沼河姫一族の支配
②出雲政権の支配
③大和政権の支配と移って行く。

① 沼河姫一族は、おそらく縄文人が和田峠に算出した黒曜石を求める往来が道になったルートを利用して、上越、佐渡の塩を信濃に運び、信濃の産品と交換し、また、ヒスイを加工して全国に売りさばいて財をなしたものと考えられる。宮崎の港は上越沿岸では得難かった、通商の良港ではなかったかと思う。

 ②ここを出雲政権がその支配圏を拡大し、後の諏訪大社に繋がる(沼河姫と大国主命の子供、建御名方神たけみなかたのかみを祀る)支配圏を拡大していったものと思われる。
 諏訪大社にミシャグジ神というのがある。これは建御名方神の前の主神だったらしく、今に至るまでこのミシャグジ神のいわゆる宮司は世継ぎだったと言われている。おそらく、出雲政権に取り込まれた地方豪族の末裔ではないかと言われている。
 ミシャグジ神の祭神は大概は岩である。この時代の風習であり、十二社権現はこの部類に属し、今に至る。すなわち、自然神ということだ。実は、出雲系の神社も基本は磐座(いわくら)信仰で、それに祖先神を重ねている。
 出雲政権は特にヒスイ加工品を大事に扱い、海路は勿論だが陸運も拓いたのではないかと想像する。

③ この地にも大和政権の支配が及ぶ時代が来る。実際に、大和政権の東進を始めたのは、崇神天皇と言う考え方がある。ところがこの天皇がいつの時代に存在したのかは確定していない。そして、近畿に到達したのは応神天皇ではないかとされているが、この天皇の時代も確定していない。古事記通りとすれば、西暦300年代ということになる。この応神天皇を祀っているのが宇佐八幡(誉田別尊ほむたわけのみこと)である。このように、大和系神社は祖先神を祀る。
 記紀では、大和朝廷の命を受けて東国の平定に当たったのが、先に出た崇神天皇の第1皇子である豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)とされている。『新撰姓氏録』【815年編纂の古代氏族名鑑】によると、上毛野朝臣、下毛野朝臣、佐味朝臣、大野朝臣、池田朝臣、住江朝臣、池原朝臣、車持公、垂水公、田辺史、佐自努公、佐代公、珍県主、登美首、茨木造、大網公、桑原公、川合公、垂水史、商長首、吉弥候部、広来津公、止美連、村挙首、下養公、韓矢田部造など諸氏族の祖と伝えられる。
 佐味一族は、越の国(のちの越前、越中、越後)で任に当たった。そこに長井、竹内氏の先祖がいた。

◆佐味の登場
 646大化の改新で駅路設置が謳われ、北陸道に佐味駅(越中)、佐味駅(越後)が置かれる(設置年は不詳だが結構早い時期に機能していたと言われている)。731年の越前国正税帳に、越前に佐味君浪麿等佐味氏が、越後国守佐味朝臣宮守の名前が見える。765年に西大寺新川郡佐味庄が置かれる。
 こう紹介すると、この時期に初めて佐味系統が当地に到来したと思われる向きもあるかもしれないが、それでは常福寺古墳の存在と結びつかない。 
 前述のとおり300年~400年の古墳時代に既に入植していたと推定した。
越中の庄.jpg

脇子八幡宮の起源は、702年に高向朝臣大足【たかむくのあそみおほたり】が越中・越後の国境を改めるために来て、神濟川(かんわたりかわ)(今の境川)をもって境界とし、国境鎮護の神を境川近くに祀る必要を痛感し、今の朝日町の城山に脇子八幡を祀ったことに遡る。
 祭神は、先に出た誉田別尊である。これは宇佐八幡からの直接の分祀のはずである(他の八幡はまだなかった)。
ところが、治承年間[1177-1181]に宮崎のサミの神を当宮に合祀している。「この神は崇神天皇の皇子で豊城入彦命のことである。今日当地方に広く拡がり住んでいる佐味氏の祖神である」と脇子八幡の縁起に書いてある。さて、「宮崎のサミの神」はどこにあったか。竹内先生によると常福寺と大溝谷の境界あたりの「才の神」に在ったとされる。とすると、佐味系統の豪族が常福寺に祀られているとして矛盾はない。さらに竹内先生は、「才の神」の守りは笹川の人たちがしていたと言われる。そうすると、笹川の人達も佐味氏と関係があるということになる。

有史では、600年代に佐味が当地に登場するが、実はその起源は古墳時代にまで遡ることになる。
 ひとつの考えとして、佐味一族は、大和政権から命じられて、東国から一部が移って、北陸道の要地に入植と防衛の拠点づくり、すなわち、家族ぐるみ屯田兵のような役割に就いたという思いに行き着く。
 越後では、直江津の先の米山の麓に佐味があり、ここには方墳一基が残っている。越中では、当地に佐味があり、前方後円墳一基が残っている。越前の佐味と目されるところは今の福井市近辺だが、ここには前方後円墳の一団がある。大和、近江にも形跡があるので、もしかすると東国での実績を買われて、近江、越前、越後、越中と次々と入植していったのかもしれない。
 水田の開墾、時には武器を取って防衛、さらには馬を使っての通商などもお得意技だったのかもしれない。最初に入植したのは1600年前頃ではないか?豊城入彦命を崇拝して生活を繋いできたが、治承年間すなわち木曽義仲の時代に事態は一変する。佐味氏の末裔は、祖先神を捨て、新しい神を持つことになる。

◆苗字の分布の面白さ
 長井(ながい)とは、あるHPによると、「苗字としては日本各地に分布するが、新潟県、群馬県高崎市付近、愛媛県今治市付近、三重県北牟婁郡紀北町付近に多くなっている。三重県北牟婁郡紀北町では5番目に多い苗字となっている。各地の長井地名から発祥した。」とある。そこで、ネットを探していたら、面白いページを見つけた。「同姓同名探しと名前ランキング」というページだ。これは、全国の電話帳の掲載件数をデータベースにしたもので、姓:長井、全国と打ち込むと、都道府県毎の長井の件数が出る。姓:長井:富山県と打ち込むと市町村単位で長井の件数が出てくる。時間はかかる。結論だけを簡単に言おう。現代の情報から1600年前を覗いてみた。
 長井の割合が多いのは、愛媛、富山、新潟、群馬、三重、兵庫、山口・・・となる。富山では呉東では朝日に集中、呉西では広く分布している。新潟では、新潟市、長岡市などに最も多いが、これは江戸時代以降の人達のようで、単一としては上越市が最も多い。群馬県は高崎市に集中している。福井県でも福井市とその近辺に集中している。 
 竹内は長井よりポピュラーな姓だが、一応、福井、愛知、長野、高知などが比率が高い。福井では福井市に集中。富山では、富山、射水、高岡に集中。他は、朝日と入善が多い。新潟では、上越市が圧倒的に多い。
このように竹内、長井の分布は、佐味の拠点の分布とほぼ一致している部分がある。

(折谷姓は笹川が発祥の地?)
 それではさて、折谷はと思われる方がおられるだろう。なんと折谷は全国に103件、そのうち富山県に73件。朝日町に58件。ということは、折谷姓は朝日町発祥と言わざるを得ない。思い返せば、折谷の元の祭神は、十二社。近辺で十二社を祀るのは、大平、上路、市振など。大平の姓である根建、末上も、他の地では見られない大平発祥と判断される。十二社が最も古い神信仰の形であることを思い出せば、これらの一族の系統は、1600年以上前から既に棲み付いていた人々の末裔とみて良いのではないだろうか。

そうすると、竹内、長井は、佐味一族の一員として、1600年前頃から展開した一族の末裔と見ることもあながち不思議では無くなる。血縁を守ってきたとかは議論しても無意味だが、開墾した同じ土地に棲み繋いだ人達の間で、なんらかの相互連絡があり、同じ姓を自然と名乗る背景があったことになる。それはいったい何だったんだろう。どうやって連絡があり、受け継がれたのだろうか。このロマンは別の機会に語りたい。
 竹内は諏訪社に、長井は八幡社に宗旨変えをしたのだが、宗旨替えをしたという意識は既になかったものと思われる。なにしろ祖先神を持ってきて既に少なくとも400年以上も経ってしまったのだから。
 平氏が貴族政治を打破し、源氏が武家政権を樹立していく時代に、当地は様変わりすることになるが、一体、それは突然やってきたとは思えない。
どういう状況が800年前に当地に展開していたのかは次に譲りたい。