さゝ郷 2000年のロマン
4.越中国(宮崎城)の歴史的不幸 (鎌倉時代~戦国時代の覇権)

 平安末期、1183年、木曽義仲が宮崎太郎長康に命じ北陸宮の御座所として構築した宮崎城は、その後の越中国での覇権を巡り、直接的あるいは間接的に目まぐるしい運命を辿ることになる。・・・・・

  それは何かというと、守護(または守護代)にしても、戦国の実力者にしても、はたまた江戸封建時代の統治者にしろ、越中では在国の者が、国の統治の主導権を取れなかったことである。越中の歴史を見ていると、1221年承久乱後、鎌倉幕府の北条朝時が守護となり、さらに1379年畠山基国が管領斯波義将の提案により、越前と越中を交換し、越中守となったときからである。

 同じ畠山家の所領である能登はその後、能登畠山氏が庶流として支配し、3代義統の時代からは守護代の統治ではなく、守護が在国して統治したのに対して、越中は畠山宗家の所領のままとどり、越中には守護が在国せず守護代が統治し、さらに畠山家の支配下にありながら、宗家の力を示すことや宗家からのコントロールがうまくできず、絶えず周りの国から干渉をうけることとなる。

 この戦国期に、守護代しかいない国は、下克上などにより守護代が実力者となったりして実質上の領主と変貌した所が多いのだが、越中では、実力者として戦国大名に変貌する前に、周りの国々(越後、加賀、能登)の干渉を受けたため、在国の守護代や国人が十分に実力を付けられず、その後、佐々成政などの一時的な支配もあるが、江戸時代には隣国前田家の支配を受けることとなる。

 戦国時代の北陸地方は、越後国は長尾氏、越中国は神保氏と椎名氏、能登国は能登畠山氏、加賀国は一向一揆、越前国は朝倉氏が支配していた。

 本能寺の変以後は、上杉景勝(春日山、上越市)、前田利家(金沢)、佐々成政(富山)、柴田勝家(福井)などの本拠地となった。
(参照文献:畝 源三郎氏 著書)

戦国地図.jpg

①1221年 承久の乱
   朝廷側の宮崎定範が鎌倉幕府側の北条朝時に
   討伐され宮崎太郎の武将血脈が新川郡から途絶えた。
   北条朝時が放生津(新湊)に城を構え守護となる。
    (後に名護と改称)

②1379年 畠山主家 守護となる。

守護代  砺波郡  蓮沼城 遊佐氏
         射水、婦負郡 放生津 神保氏
         新川郡     松倉城 椎名氏

③1506年 加賀一向一揆との戦い

越中の武士だけでは、一向一揆に歯が立たず、
   越後 長尾能景に援軍を要請。
   和睦後、砺波郡は一揆方が支配。神保、椎名は
   旧領地を回復。

④1519年 越中永正の乱
   長尾為景、能登畠山氏と共に神保慶宗を討伐。
   為景 越中の守護となり、椎名氏を守護代とした。

⑤1560年 神保×椎名・上杉連合軍との戦い
   復興した富山城主神保長職が武田、一向一揆と  
   手を組み松倉城椎名康胤を攻める。
   椎名氏、上杉謙信に援軍を要請し之を討伐する。

⑥1568年 椎名×上杉軍の戦い
   椎名氏、武田、一向一揆と手を組み上杉氏に反旗。
   上杉謙信、侵攻し椎名氏を追い出す。

⑦この後、謙信は一向一揆と和睦

石川県手取川で織田軍を破り加賀、越中、越後の覇権達成。

⑧1582年 上杉×佐々・前田・柴田の織田軍との戦い 
  織田軍、信長の死去で撤退。

⑨1583年 佐々氏の侵攻で上杉氏越中国から撤退。

⑩1584年 宮崎城の終焉の戦い

本能寺の変以降、秀吉から離反していた佐々
   成政討伐の戦いが始まり、 秀吉の命を受けて
  上杉景勝が新川郡に進入し宮崎城を陥落させた。


1586年に前田家の高畠織部が入城、そして1587年には 小塚権太夫が入城し治めることとなり宮崎城を巡った攻防戦が終焉を迎えた。