①1221年 承久の乱
朝廷側の宮崎定範が鎌倉幕府側の北条朝時に
討伐され宮崎太郎の武将血脈が新川郡から途絶えた。
北条朝時が放生津(新湊)に城を構え守護となる。
(後に名護と改称)
②1379年 畠山主家 守護となる。
守護代 砺波郡 蓮沼城 遊佐氏
射水、婦負郡 放生津 神保氏
新川郡 松倉城 椎名氏
③1506年 加賀一向一揆との戦い
越中の武士だけでは、一向一揆に歯が立たず、
越後 長尾能景に援軍を要請。
和睦後、砺波郡は一揆方が支配。神保、椎名は
旧領地を回復。
④1519年 越中永正の乱
長尾為景、能登畠山氏と共に神保慶宗を討伐。
為景 越中の守護となり、椎名氏を守護代とした。
⑤1560年 神保×椎名・上杉連合軍との戦い
復興した富山城主神保長職が武田、一向一揆と
手を組み松倉城椎名康胤を攻める。
椎名氏、上杉謙信に援軍を要請し之を討伐する。
⑥1568年 椎名×上杉軍の戦い
椎名氏、武田、一向一揆と手を組み上杉氏に反旗。
上杉謙信、侵攻し椎名氏を追い出す。
⑦この後、謙信は一向一揆と和睦
石川県手取川で織田軍を破り加賀、越中、越後の覇権達成。
⑧1582年 上杉×佐々・前田・柴田の織田軍との戦い
織田軍、信長の死去で撤退。
⑨1583年 佐々氏の侵攻で上杉氏越中国から撤退。
⑩1584年 宮崎城の終焉の戦い
本能寺の変以降、秀吉から離反していた佐々
成政討伐の戦いが始まり、 秀吉の命を受けて
上杉景勝が新川郡に進入し宮崎城を陥落させた。
1586年に前田家の高畠織部が入城、そして1587年には 小塚権太夫が入城し治めることとなり宮崎城を巡った攻防戦が終焉を迎えた。