さゝ郷 2000年のロマン
1.さゝ郷を通る街道

はじめに

 豊かな自然と素朴な文化に包まれた【ふる里 ささ郷】に想いを馳せる甥と叔父。たがいの想いを語り合っているうちに楽しくなってきて、【これってロマンだね!!】と言うことになり、史実からはほど遠いものかも知れませんが、その想いを綴ってみることにしました。

1.さゝ郷を通る街道
 出雲政権時代に大国主命が蝦夷征伐と宮崎のヒスイを得るために来ていたので、その頃に出来たと思っています。(勿論、縄文時代にもそれなりに有ったでしょう。)

2.竹内氏、長井氏が、いつ頃来従したのか

 奈良時代、(743年)荘園の自由開墾が認められ佐味荘が出来た頃であると思っています。少なくとも平安末期に来た、北陸宮・木曽義仲より以前です。

3.信仰について
 自然霊崇拝、先祖霊崇拝(地神~三社)と真宗の布教

4.越中国の歴史的不幸
  (鎌倉時代~戦国時代、越中国の覇権)
  宮崎城もその渦に巻き込まれました。

5.一村一家
 笹川では【一村一家】と言う文化が育まれていた時期がありました。 
 生産作業の種類や地域割り(現在の町内会)など、いくつかの組があり、それらが親戚以上に助け合いながら「村からは一人たりとも生活の落伍者を出さないように相互で励まし合う体制」が築かれていました。

 少子高齢化が避けられない時代、笹川の福祉などを考えると、まさに先人が育んだ文化を基盤とした笹川らしい福祉活動の体制作りと活動が望まれると思っています。

笹川字地図2012-9-10.jpg1.1 大和時代の日本海沿岸
 北陸地方の範囲は、新潟県から福井県まで東西におよそ400kmあり、細く長い。歴史的に古代の「越国」と呼ばれた地方を多く含み、若狭国から越後国までの範囲におよぶ。明治時代頃までは「ほくろく」と読まれていた。この北陸地方の道路を指して「越路」「北陸道」と呼ぶ事もある。
北陸地方は、「日本海沿岸の地方勢力」として、他の地方からは半ば独立した歴史を歩んで来た。
 越国は、ヤマト王権の勢力に組み込まれると三つの領域に区分された。令制国の国府所在地を見ると、越前国は武生、越中国は伏木(高岡市北部)、越後国は直江津(上越市北部)に当たる。
 この国府所在地の位置により、当時のヤマト王権の支配領域は、東は概ね新潟県の上越地方までで、それ以北は領土外(蝦夷)であった。

しかし、後に支配領域を伸ばすと、北は天険たる鼠ヶ関(ねずがせき;山形県鶴岡市)と東は越後山脈が北陸道の北限となり、その中に越国から分離される形で出羽国が設置された。
 黄金の国・平泉寺は、能登国が越前国から分離した頃に開山し室町時代末期まで巨大な宗教都市として勢力を誇った。

笹川の歴史を紐解くうえで、総合的に判断すべきは、軍事、通商、宗教であると思っていますが、
 古代日本で最初の全国通運ルートを開拓したのは出雲政権で軍事的には蝦夷討伐、通商的にはヒスイの勾玉類の宝石および塩の通商権、宗教的には祖霊崇拝の出雲信仰の布教であったと思われる。
 また、646年大化の改新の詔に駅伝制を布く旨の記述があります、これを契機として計画的な直線道路網が全国的に整備され始め新川郡から頸城郡(青海辺りまで)にも8つの駅が出来ました。
 新川郡佐味駅はどこにあったかは特定出来ていませんが宮崎の常福寺遺跡あたりに置かれ、佐味荘の中心もあったのではないかと推測しています。笹川も佐味荘に含まれていたと考えています。各駅には馬が登録されていて佐味駅では馬 8疋でした。

1.2 通商的観点

 ヒスイの勾玉は宮崎・浜山(遺跡)で組織的に生産されていたことから 古墳時代以前の古代これを全国にどうやって運んだか? 
 路には、海路、陸路、汀道(渚道)があり、陸路には通常陸路といわゆる近道がありました。
 笹川を通る通常陸路は、愛本~舟見~蛭谷から三峯、雁蔵を経由し、山伝いに、諏訪神社境内、正覚寺前、最禅坊前、北野を経由し、城山の麓を上り、宮崎のヒスイ加工地に下るルート(1ペ-ジ右下゙参照)が最も古くからあり、これがヒスイや黒曜石を京に運ぶ通常陸路となっていたと思います。京都向きが上、逆が下ということで、笹川のおもて向き(上)、うら向き(下)と言う表現はここから発生したモノでしょう。 また、平安末期に義仲がわざわざ主要街道から離れたところに、北陸宮のための社を建立したとは思えません。京に上る主要街道に面して、また豊かなところに建立したと考えるのが道理でしょう。
 安寿と厨子王の話でも分かるように、直江津から宮崎までは一連の地域だったと思います。その中でも最高の宝石であるヒスイと勾玉の商業的な意味はとても大きかったのではないでしょうか。
(宮崎以北の通常陸路は、境~大平~上路~青海。 笹川を通る近道としては、木曽義仲軍が通った上路~大平~雁蔵がある。)

1.3 宗教的観点(祖霊信仰)

 日本固有の信仰には、精霊信仰、祖霊信仰、首長霊信仰の三つがあります。
 精霊信仰は縄文人の信仰で、山・川・風・動物・植物など、あらゆる事象に精霊が宿るとする考えで自然物や自然現象を神格化した神です。

笹川の三社は、最初はこの種の信仰であったと思います。獅子舞によく現れています。
 祖霊信仰(出雲系)は、弥生時代中期に江南(中国長江以南)からもたらされたもので、亡くなった祖先はすべて神となり、自然現象を司り、子孫を見守るとするものです。
 首長霊信仰(伊勢系)は、ヤマト朝廷によってつくられました。それは、天皇や天皇に仕える首長たちの祖先の霊は、庶民の霊よりはるかに強い力をもつとする信仰です。そこで、朝廷は民衆に自分の祖先を祀るとともに、天皇家の祖神の祭りに参加する事を命じるようになりました。
(信仰にはもう一つ仏教があります。神道は地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教は主に個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく異なります。(詳しくは次号にて))

 出雲政権は祖霊信仰です。
 大國主命もこの街道を通り糸魚川まで遠征して、越の国の女王として新潟県の糸魚川市辺りに住んでいた奴奈川媛(ぬなかわひめ)を強引に妻にしました。その子、建御名方神(たけみなかた)は諏訪神社の主神となりました。諏訪神社が出雲系であることの歴史的意味と考えています。 
 後年、木曽義仲が諏訪大社下社大祝(おおはふり)金刺盛澄(かなざしもりずみ)に命じて、この地に諏訪神社を分祀させたという。神の磐座(いわくら)として信仰(自然霊信仰)されていた背後の山(現在は諏訪山と呼ばれている)をご神体に模して建造した。また、御射山神事(みさやま)を行うなど、諏訪神社と同じような祭礼を催したなごりが地名や祭礼の日にちなどに今でも残されていることは皆様周知のことです。

1.4 軍事的観点

 軍事的には、古代は蝦夷との戦いの最前線が、宮崎-直江津間でした。
592年 崇峻天皇の御代に阿部臣を北陸道に遣わし越後の諸国境を観させたとある。
 642年 皇極天皇(642)の御代に越後の蝦夷数千が内附してきたので、この地に有力な豪族を配し、開拓をさせながら蝦夷の防衛に当たらせた。とあります。
 後年には、北陸道を通じて4項に示す越中国の覇権や木曽義仲、上杉謙信等の京への要の街道となりました。
 軍隊が海路を通ったとは思えません。きっと、陸路しかも複数の山間ルートを選択したでしょう。
 飛鳥時代の「佐味駅の馬 8疋」から始まり、江戸時代には笹川の名産に馬が登録されています。地名等にも馬にかかわるものが意外と多く、これが周囲の尾根伝いによく見えます。馬は軍馬、荷役馬と両方の需要があったということではないかと思います。
軍隊が、笹川を何度も通った。しかも、軍事の要地に近かったとしたら、傍観していたのではなく、荷物運びなり、にわか武士で加勢なりで、稼いでいたのではないだろうか。