自然生態 川魚・樹木
本コ-ナ-では、折谷隆志さんの【笹川の自然と村人の生活】の記述を抜粋させて戴き、
笹川に生息している、川魚、樹木について記載しております。
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写真は、笹川に生息しているモノと違う場合がありますがご容赦願います。
川魚
(1.笹川小学校の思い出の項より抜粋)
.....
当時の笹川は現在のように両岸に石積みの堤防も少なくほぼ原始に近い清流であった。両岸にはスモモやオニグルミが生い茂り蛇行して流れる川のあちこちに深い淵が顔をのぞかせていた。
初夏にスモモが青い実をつける頃、この木の下で、「モズクガニ」が硬い甲羅を脱いで脱皮を始めていた。川のよどみには「メダカ」や「モエビ」が、流れには腹に吸盤をつけてすばやく川底を移動する「ヨシノポリ」、小石の下には「カジカ」や頭に「刺毛」をもつ茶褐色の「アカザ」などと共に「アユ」や「イワナ」の豊富な川だったのである。
.....
笹川小学校百周年回顧録に、小林実氏は今から約70年前の笹川には、カジカ、ザシ、アユ、キノ、グズ、アマミコ、モクガニ、イワジロウ、サンシヨウウオ、マス、ウナギを記録している。
これを筆者の観察と重ねて表1に掲げてみた。
かって、この小さな笹川には実に17種類もの魚類が生息していたのである。小林実氏は幼年時代の雑魚とりを回想し、笹川を何とか昔のようにカジカ等が棲める清い豊かな川にしたいものだと述懐している。
表1 笹川の魚類など | |||
科目 | 現在生存 | 種名 | 方言(笹川) |
サケ科 | ◎ | ヤマメ |
アマミコ |
〃 | サケ | ||
〃 | ◎ |
イワナ | |
アユ科 | アユ | ||
コイ科 | ◎ |
ウグイ | |
〃 | ◎ |
コイ | |
ドジョウ科 | ◎ | ドジョウ | |
ギキ科 | アカザ | ザス | |
ウナギ科 | ウナギ | ||
メダカ科 | ◎ | メダカ | |
ハゼ科 | ◎ | ヨシノボリ | キノ |
〃 | ウキゴリ | グス | |
カジカ科 | カジカ | ガジッカ | |
〃 | ◎ | カマキリ | イワジロウ または ガンコ |
その他 | ◎ | サンショウウオ | サカショウナマ |
モズクガニ | モクガニ | ||
モエビ |
**********ヤマメ******************* イワナ***********
**********アユ******************* ウグイ*************
**********コイ******************** ドジョウ**********
**********アカザ******************* ウナギ***********
**********メダカ******************* ヨシノボリ*******
**********ウキゴリ******************* カジカ********
********サンショウウオ*************** モズクカニ******
**********モエビ***********
樹木
(2.黒菱山の自然項よりの抜粋)
(文中のピンク色文字は草花コ-ナ-に掲載しています。)
現在、笹川から黒菱山(標高 1041m)への登山道は開かれていない。(編者記:現在、登山道は林道および有志により作道されています。)
そこで笹川本流をたどり黒菱山頂に至るルートを掲げてみた。まず車道の終点(おしば)から対岸へ渡り、トチの巨木やキハダが点生する450m地点から杉造林地を横切って標高650mの山腹に出る。
この650mの地点は比較的なだらかで沢水が流れており、ヨシが多いので「ヨシ原」と称する。この地点は、春は残雪は多いが秋には「サルナシ」など甘い果実をつけるツル植物が繁茂している。
この植物は茎を切ると水が出るので夏、水のない山道で結構のどを潤してくれる。
.....
東ヒタイ部にはイワウチワやオオイワカガミなどが群生し、所々夏に青紫色の花をつけるナツエビネがみられる。このヒタイ部から山頂まではブナ、ミズナラ、ナナカマド、リョウブ、ユキツバキなどが潅木化して地をはっている。
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黒菱山三角点のポールは腐朽してカリヤスの草むらの中に倒れていたが、周辺ではブナ林の中にオオコメツツジ、コメツツジ、アカミノイヌツゲ、キタゴヨウなどの亜高山帯の植物がみられる。
笹川源流は標高800m黒菱山東南部直下から流出する沢、焼山東部付近から流出する沢との2つに分かれており、雪どけ時には前者の黒菱山東南部直下か笹川源流のように思われる。
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黒菱山山腹部では、標高400~700mにわたって大規模なスギ造林が行なわれてから5~10年程度になる。土壌層の薄い急傾斜面で密生したスギ林では、すでに下草が消滅して裸地化が始まっており所々小さな沢くずれが起こっていた。
スギの人工林は欝閉した樹冠の下では下草の生育を許さず、根系は貧弱である。急傾斜面でこのように頭でっかちのスギ林は成熟してくると「山はだ」に荷重を加えて山くずれを誘発する。最近、日本各地発とした地滑りは殆んどスギ造林地であることは、これら筆者の観察を裏づけてくれる。
太古の時代から黒菱山のブナ林は水源地としてここに降る雨水を蓄えて笹川村の渓流を守り笹川村の豊かな秋の稔りを約束してきた。
(以下は3.笹川の自然景観より抜粋)
笹川村は周囲を三峰、城山などの里山と背後には1000m級の黒菱山にとりまかれた村落であるが夏には対馬暖流の通る富山湾に近く、村落の植生景観は海岸近くの城山(標高248m)ではスダジイ、ウラジロガシ、アカガシ、タブ、ヤブツバキなどの暖帯林が笹川河口域にまでのぴている。
笹川村のほぼ中央にある諏訪神社の森では暖帯性のアカガシと亜高山帯のヒメコマツやトチの巨木が共存する植生は日本列島の中でも全くユニークな存在である。
すなわち、暖かい地方の植物と寒い地方の植物が共存できる笹川渓谷では「七重瀧、観音岩、弁慶の鉈えこの岩」など自然がおりなす景観もまた四季とりどりの変化をみさせてくれる。
明治中期、殿村洗心の作と伝えられる正覚寺の庭園は小山の急斜面で頂部にヒメコマツの巨木、斜面にツガやヤマモミジの混生林を配して地形が作られた造園方式は、全く山岳における緑化工学の原点とでも言えるほど工夫がされている。
笹川の自然と村人の生活 折谷 隆志
1.笹川小学校の思い出
私が、旧小学校に入学したのは、昭和17年第二次大戦に突入した一年後であった。
天皇・皇后両陛下の写真のある二階の広間で入学式を終え、私達一年生は一階の入口に最も近い教室に配置された。
毎日終業の鐘が待遠しく一年を過ごした。せまい校舎の敷地では体育らしいことは殆んどなく、せめて昼休みには校舎の東側に垂れている藤ずるにぶら下つて戯れるのが唯一の運動であった。
しかしこの小さな校舎とも一年で別れ昭和18年には、現在の新しい校舎に移ることになった。ここでも、私達二年生は一階の東側から二番目の教室に配置され土井先生の担任となった。
この教室は川に近いので先生の目を盗んで逃げだす出口でもあった。ある初夏の日、例の如く私達悪童が授業の終わるのも待ち切れず、まだ冷たい梅雨明けの川に入って夢中になっているとき、先生に衣服を全部教室へもっていかれたこともあった。
当時の児童は川で泳ぐのに全員ノーパンであつたから素裸でイチジクの葉ならぬ小さな手で金玉を隠しながら職員室に入り、同級生の女子にはやし立てられたものであった。
当時の笹川は現在のように両岸に石積みの堤防も少なくほぼ原始に近い清流であった。両岸にはスモモやオニグルミが生い茂り蛇行して流れる川のあちこちに深い淵が顔をのぞかせていた。
初夏にスモモが青い実をつける頃、この木の下で、「モズクガニ」が硬い甲羅を脱いで脱皮を始めていた。川のよどみには「メダカ」や「モエビ」が、流れには腹に吸盤をつけてすばやく川底を移動する「ヨシノポリ」、小石の下には「カジカ」や頭に「刺毛」をもつ茶褐色の「アカザ」などと共に「アユ」や「イワナ」の豊富な川だったのである。
流れも清き笹川の水にきたえし汗流しきたえにきたえ この体…
笹川小学校の古い歌詞のように、私達男子・女子もかって笹川の清流にあらわれながら成人したのである。
当時、まだ自動車も殆ど通らなかった田舎道りには、時折鉄製の車輪をつけた荷車がガタガタと通るぐらいで、ゆるやかに曲がりくねった坂道は悪童達の格好の遊び場となったのである。
春には乾いたほこりつぼい道路で二本の電信柱をおいて陣取り合戦、冬は雪合戦、雪の多い年には道の真ん中に「落し穴」を掘ったりして遊んだものであつた。
今から50年前ラジオも数台しかなかった笹川村では当時の子供達には豊かな自然の中で四季おりおり川の遊び、山での山菜とり、栗拾いなど沢山の遊びがあったのである。
折谷隆一氏作詞の「笹川小唄」から春に桜の城山、夏に涼しい観音岩の瀧しぶき、諏訪の秋祭り、七重瀧の紅葉、冬には雪の三峰のスキーと自然景観に恵まれた笹川谷では精神的に充実した文化生活をかいまみることが出来る。
笹 川 小 唄
鐘が鳴る鳴るお寺の庭に
明けて笹川花の春
清い笹川流れのあたり
咲いた咲いたよ山桜
黒菱山から流れる水は
観音岩にも瀧しぶき
諏訪の社は踊りにふけて
社に夜明けの星が待つ
稔り実って笹川谷は
ほんに黄金の穂がなびく
ちらりちらりと笹川谷に
雪が降り ̄ます積もります
頼もる想いに小窓をあけりや
銀の三峰は月の宿
笹川小学校百周年回顧録に、小林実氏は今から約70年前の笹川には、カジカ、ザシ、アユ、キノ、グズ、アマミコ、モクガニ、イワジロウ、サンシヨウウオ、マス、ウナギを記録している。
これを筆者の観察と重ねて表1に掲げてみた。
表1 笹川の魚類など | |||
科目 | 現在生存 | 種名 | 方言(笹川) |
サケ科 | ◎ | ヤマメ |
アマミコ |
〃 | サケ | ||
〃 | ◎ |
イワナ | |
アユ科 | アユ | ||
コイ科 | ◎ |
ウグイ | |
〃 | ◎ |
コイ | |
ドジョウ科 | ◎ | ドジョウ | |
ギキ科 | アカザ | ザス | |
ウナギ科 | ウナギ | ||
メダカ科 | ◎ | メダカ | |
ハゼ科 | ◎ | ヨシノボリ | キノ |
〃 | ウキゴリ | グス | |
カジカ科 | カジカ | ガジッカ | |
〃 | ◎ | カマキリ | イワジロウ または ガンコ |
その他 | ◎ | サンショウウオ | サカショウナマ |
モズクガニ | モクガニ | ||
モエビ |
かってこの小さな笹川には実に17種類もの魚類が生息していたのである。小林実氏は幼年時代の雑魚とりを回想し、笹川を何とか昔のようにカジカ等が棲める清い豊かな川にしたいものだと述懐している。
「笹川史稿」によると笹川村は江戸時代から昭和時代、第2次世界大戦前後にかけて降雨時には大洪水、夏には極度の渇水による水騒動に明け暮れてきた。
梅雨明けや台風時の集中豪雨によつて笹川は堤防を破って大きく氾濫した。
笹川村を「屏風」を立てたように取り巻いている巨大な岩盤からなる黒菱山系に降った雨はこれを吸収する土壌層と樹林帯は少なく、一気に笹川渓流を流下して増水するからである。
江戸時代から昭和初期にかけて生活のエネルギーをすべて薪炭に頼って生活していた村人にとって里山のみならず黒菱山は格好の採炭林の場となっていた度重なる薪炭林の伐採により生育の遅い黒菱山の樹林帯の生育が一層抑えられ増水時には雨水を蓄え切れず洪水を助長させたのである。
私達の幼少時に梅雨明けの泥流した笹川は巨石を浮かべて一晩中ゴロゴロと音を立てて家や田畑を流し、ニケ堂橋を流してあばれまわった姿を思い出す。
このような洪水の後、笹川村は一層貧しくなり、村人の多くは一年の大半を季節労働者として出稼ぎに出掛けなければならなかったし、村に留守をあずかる年寄り、子供達まで朝まだ暗いうちから野山に出て働き、夕べに星をいだいて帰るという生活を余儀なくされたのである。このような村を壊滅させるような大洪水は決して過去の歴史ではなく現代の教訓である。
さて、不思議なことに、笹川村の歴史書の中には黒菱山の地形、生物などの記録は殆どみられない。
2.黒菱山の自然
現在、笹川から黒菱山(標高 1041m)への登山道は開かれていない。
そこで笹川本流をたどり黒菱山頂に至るルートを掲げてみた。まず車道の終点(おしば)から対岸へ渡り、トチの巨木やキハダが点生する450m地点から杉造林地を横切って標高650mの山腹に出る。
この650mの地点は比較的なだらかで沢水が流れており、ヨシが多いので「ヨシ原」と称する。この地点は春は残雪は多いが秋には「サルナシ」など甘い果実をつけるツル植物が繁茂している。
この植物は茎を切ると水が出るので夏、水のない山道で結構のどを潤してくれる。
この「ヨシ原」からまだ残雪のある5~6月には東側の稜線に沿って登れば黒菱山の東ヒタイ部標高850mに達する。しかし、雪どけ後には「ヨシ原」から南側の沢ずたいに登って南ヒタイ部へ向かうほうがよい。
この黒菱山の南東にのびるヒタイ部はなだらかで長く「東ヒタイ部」まで小1時間のヤプこぎが待っている。いずれにせよこのヒタイ部から黒菱山の三角点に登るのが一番安全なルートである。
このヒタイ部にはイワウチワやオオイワカガミなどが群生し、所々夏に青紫色の花をつけるナツエビネがみられる。このヒタイ部から山頂まではブナ、ミズナラ、ナナカマド、リョウブ、ユキツバキなどが潅木化して地をはっている。
この灌木帯を抜け切ると突然黒菱山山頂部を東南に走る登山道に出会う。この山頂部へ続く登山道は「くせ者」で三角点を中心に広大な黒菱山高原を右まわりに「焼山」、大平の「水上谷」方面へと続いている。
現在、この登山道は灌木が生い繁って所々寸断しており水上谷の尾根(標高 800m)から大平の沢ぞいの降り道では登山道は消滅している。
黒菱山三角点のポールは腐朽してカリヤスの草むらの中に倒れていたが、周辺ではブナ林の中にオオコメッツジ、コメッツジ、アカミノイヌツゲ、キタゴヨウなどの亜高山帯の植物がみられる。
笹川源流は標高800m黒菱山東南部直下から流出する沢、焼山東部付近から流出する沢との2つに分かれており、雪どけ時には前者の黒菱山東南部直下か笹川源流のように思われる。
春、東南部の源流には積雪が多く厳しい沢ぞいの深い淵にはまだ大岩魚がみられた。なお、黒菱山山腹部では、標高400~700mにわたって大規模なスギ造林が行なわれてから5~10年程度になる。土壌層の薄い急傾斜面で密生したスギ林では、すでに下草が消滅して裸地化が始まっており所々小さな沢くずれが起こっていた。
スギの人工林は欝閉した樹冠の下では下草の生育を許さず、根系は貧弱である。急傾斜面でこのように頭でっかちのスギ林は成熟してくると「山はだ」に荷重を加えて山くずれを誘発する。最近、日本各地発とした地滑りは殆んどスギ造林地であることは、これら筆者の観察を裏づけてくれる。
太古の時代から黒菱山のブナ林は水源地としてここに降る雨水を蓄えて笹川村の渓流を守り笹川村の豊かな秋の稔りを約束してきた。
今後、村人連はこの黒菱山の造林地での植生と土砂くずれを注意深く見守っていく必要がある。将来の黒菱山への登山道の整備は、黒菱山ら自然環境を保全する上からまた村人による自然への理解を深める上からも大切な問題となると考えられる。
3.笹川の自然景観
笹川村は周囲を三峰、城山などの里山と背後には1000m級の黒菱山にとりまかれた村落であるが夏には対馬暖流の通る富山湾に近く、村落の植生景観は海岸近くの城山(標高248m)ではスダジイ、ウラジロガシ、アカガシ、タブ、ヤブツバキなどの暖帯林が笹川河口域にまでのぴている。笹川村のほぼ
中央にある諏訪神社の森では暖帯性のアカガシと亜高山帯のヒメコマツやトチの巨木が共存する植生は日本列島の中でも全くユニークな存在である。
すなわち、暖かい地方の植物と寒い地方の植物が共存できる笹川渓谷では「七重瀧、観音岩、弁慶の鉈えこの岩」など自然がおりなす景観もまた四季とりどりの変化をみさせてくれる。
明治中期、殿村洗心の作と伝えられる正覚寺の庭園は小山の急斜面で頂部にヒメコマツの巨木、斜面にツガやヤマモミジの混生林を配して地形が作られた造園方式は、全く山岳における緑化工学の原点とでも言えるほど工夫がされている。
4.村人の生活
周囲を山に囲まれた笹川村落は平坦部が少なく、山すそに石垣を築いて家を作り生活の場としてきた。そのため石垣の村とも呼ばれた。
ここではわずかな田畑と山林が生活の糧であり、殆んど村人が都会へと出稼ぎを余儀なくされたのである。
このような笹川村の厳しい生活環境をさらに圧迫したものに洪水や台風や冷害さらには江戸時代には「いのしし」が田畑を荒らしまわった。
このため時の役人モウソウ竹の植栽、養蚕、製材紙のためにコウゾの栽培を奨励し生活の安定化をはかったのである。
時代は変わり昭和38年には国道8号扱が、昭和63年には高速自動車道が泊一親不知間を開通し平成5年には糸魚川一魚津間に新幹線が着工されるなど、笹川村落も近代化の波に押され著しい変貌を遂げることとなった。
その間村落からも人口ガ流出し村の小学校も百余年の歳月をもって閉校を迎えることになったのである。
ここで、私達村人は次ぎの村を担う世代のため腰をすえて新たに21世紀に向けての豊かな「村作り」を真剣に考えなければならない。私は豊かな「村つくり」は、自然景観に恵まれた黒菱山と笹川の清流を中核としながら新たな「特産作り」を加えて平和な桃源郷をめぎすものでなければならないと考えて
いる。
これらの目的のためには今日閉校される小学校は黒菱山系の自然史博物館として、また村民の健康のための「リクリエーション施設館」として生まれ変わっていただきたいのである。
(完)