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笹川諏訪神社(1)

笹川の信仰(神社編)  氏神→ 三社建立→ 笹川諏訪神社建立→ 三社合祀


笹川では古くは、氏神と言われる同族神の祭祀は、氏人によってのみ行なうことを前提としていたが、

竹内氏の氏神に堀内、深松氏が加わり、折谷氏の氏神に小林、宇津の両氏が加わると、

同族団は一つの神を媒体とした擬制的な同族集団としての気分が強くなり、さらに他氏との分家、

婚姻等も行なわれると、中世末期までには、ほぼ血縁的な同族関係の単位よりも、

住居地の「おもて」の折谷、小林、字津は十二社権現を、「なか」は竹内、堀内、深松の諏訪社を、

「うら」は長井、勝田の八幡宮と、地縁的集団の祭祀に移行してきて三社が建立されたものと見られる。

三社合祀
 多説あるが、寛政11年(1799年)8月26日還宮にかかわる【社殿再建の棟札】があったことから、

それ以前に笹川諏訪神社に合祀していたと思われる。
現在も、祭禮にはその三社の神旗を掲げ、社殿には漫幕を貼りめくらしいてる。


木曽義仲と笹川諏訪神社

笹川諏訪神社は1182年(寿永元年)に信州の諏訪大社の分祀社として建立されたと謂われている。

 当時から地元住民に盤座(いわくら)として尊ばれていた諏訪山の大岩をご神体の本尊として中段に神宝殿、

下段の宮平には拝殿と祭り広域が設けられた。

 ご祭神は諏訪大社と同様、出婁の国の大国主命と妃神、越の沼河姫命(ぬなかわのみこと)を両親とする

建御名方富命(たけみなかたとみのみこと)と妃神、八坂刀売命(やさかとめのみこと)である。
 建立には木曽義仲の参謀、金刺盛澄(かなざしもりずみ)【諏訪大社の総官総代】があたり、

北陸の宮(ほくろくのみや)の還俗と元服の儀式や尊称奉呈や木曽北陸軍の象徴となる推載式などで

元服親、木曽義仲は平家討伐の大義名分を手にして決意を固めたとされる。

 後に倶利伽羅合戦で戦功のあった長井氏(党)の八幡社や折谷氏の十二社権現の二神を合祀して篠林(ささごう)

の総氏子神社となり現在に至っている。


 古く、信州諏訪大社では8月27日を中心に、御狩り、流鏑馬(やぶさめ)などを奉納して御躰山祭(みさやま)

が行われた。

これと同じ祭は、この笹川渓谷を「スタジアム」として行われた跡が古い地名で遺されている。

南東の山神様を祈る「権現山」、御躰山の近くに御狩りを行った「狩矢場(かやば)」、騎射出発点の「オコナデ」、

諏訪社人党の「シヤガ」、弓の標的となる「的場」などである。

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