Img_1809.jpg五輪 塔(竹内家)

Img_1821-3.jpg地神(長井家)

 村を開いた人々

笹川は、他の多くの村々の場合と同様、村が開かれた当時のことについては何等文献史料を残していない。したがってその年代も全く不明であるが、ただ村には開拓者についての若干の口碑を残している。

来住 

それによれば、昔「亮(すけ)」「左衛門」 の二人がこの土地を開いて居住したというのである。そして彼等は各々の土地の領有を定めたのであるが、その境界を「仕切が谷」と名付け、かつその永住を祈念して地躍をした土地を「地躍」と名付けた。

 その地名が今日ではなまって、前者は「シギャラ谷」後者は「ジョード」と称している。
 亮は仕切が谷の北に住み、佐衛門はその南に住んだという。
 彼等の先任地については、佐衛門が住んだ所を「佐渡ケ谷」と名付けているところより、佐渡から渡来したものであろうか。亮については全く不明である。

 その後、第三番めに三郎左衛門、四番目に与兵衛、五番目に五郎右衛門、六番目に六郎兵衛、七番目に七左衛門が来住したという。
 三郎左衛門以下の来任の順序はその名にあらわれているというのである。
 真偽の程は確証を得ないが、この七家は江戸時代を通じて一般の住民と異なる、特別の取扱を受けていた。
 即ちこの七家は「七人の同苗」と称されて村人の尊敬を受け、かつ一家ごとに年米七升宛を村より納めていた。これは先任権ともみるべき一種の特権であって、その家名が売買の対象になっていたというから、この七家が村の開拓者であるとする口碑がある。

7つの苗字

竹内】
 このうち衆初の居住者という亮は、この村に数多い竹内家の祖先であって、竹内というのは滝の内より変化したものであるという。

【長井】
 左衛門は現在の長井家の祖先で、長井と称したのは平氏の長井系よりとったのであるという。

【小林】
 三郎左衛門は小林家の祖先で、佐渡より渡来したので佐渡三郎左衛門と呼んでいたのを、のちに小林と称するようになったという。

【堀内】
 与兵衛は現在の堀内家の祖先で、
 家名の由来は屋敷内に堀があったので堀の与兵衛と称していたが、のちに中絶し、後世に至り九郎兵衛が家名をついだという。

【深松】
 五郎右衛門は現在の深松家の祖先で、
 中途故あって五郎右衛門の家名を他に売却したが、その後前述の堀与兵衛が中絶したためにその家名をついだものであるという。

【折谷】
 六郎右衛門は現在の折谷家の祖先で、金屋谷より来たために落合といい、のちに折谷と変えたという。

【宇津】
 七郎左衛門は現在の字津家の祖先で能登の宇出津より来たために宇出津と呼び、のち字津に変じたもので、その所有している谷を宇出津と称している。

村の起源

 村の起源は、別項で述べるように源平の争乱期に木曽義仲が以仁王の遺児を笹川で元服させ北陸宮とし宮を奏して上洛したことから、平安時代にはすでに来住していたことは事実である。


上述の七氏が村の開拓者か、或はそれに近い頃この村に移住してきたもので、それゆえその前住地及び家名の由来等については確証はないが、既に江戸時代よりこのような姓を称していたことは興味ある事実である。

 周知の通り江戸時代の農民は一般に姓を称することは許されなかった。加賀藩領においては御扶持人十村のみは公に姓を称することを許されたが、それ以外の農民は許されていなかった。それ故この村においても公用の文書には一般の場合と同様農民は姓を用いていないが、私用の場合にはこのように姓を称していたものである。なぜこの村の農民が姓を称したかについても確証はないが、これらは武士の子孫であった為に姓を称したのではあるまいか。

 例えば小林氏は糸魚川在住の「小林家譜」によれば以前、佐々成政に仕えていたのが、故あって前田氏にゆき、のちに後老を笹川に養うとあるから、その子孫であるかもしれない。しかしこの説に従うと、村の口碑に云う小林三郎兵衛は佐渡より来たというのと一致しないことになる。また、「三州志」「三州故事見聞録」等によると、加賀藩の家臣に天正十二年に小林弥六左衛門(三州志)慶長十八年に小林六左衛門・小林加兵衛・小林少兵衛(三州故事見聞録)等の名がみえる。

 堀内家はもと堀と称したとあるが、「三州志」によれぼ堀与八郎なる者が越中にきたり佐々成政に仕え、弟三郎兵衛・同覚左衛門等とともに宮崎城を守っていた。それゆえに天正十二年十月、上杉景勝が佐渡の藤田能登守等を将として宮崎城を攻めた時、成政は宮崎城の危きを知りながら援兵を出さなかったので、守兵三百は一夜にして散り、宮崎城は陥落した。与八郎は怒って前田氏に仕え、のちに八王子で戦死したという。この堀三郎兵衛等との関係も想像されるのである。

 この考えに従えば、笹川村を開いた七氏の来住は、戦国時代より江戸時代初期に推定し得るのであるが、この祝に対しては有力な反証がある。それは同村地内より発見された石器・土器・及び五輪塔・懸仏等の遺物である。

joumondoki.jpg縄文土器 (宇道満にて昭和9年11月、折谷嘉重発掘)
石器・土器については字道満より多数の縄紋式土器と石斧等の石器が発見されているし、宇加順坊より祝部式土器が発見されているが、これを現在の村の起源と直接に結びつけることはあるいは無理かもしれない。

shukubadoki.jpg祝部土器 (宇加順坊にて昭和6年10月、折谷恒次郎発掘)

kenbutu.jpg懸佛 (宇托山にて明治14年、大谷豊吉発掘)

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しかし字田中にある三基の五輪塔、字尻井にある五輪塔・陽刻板五輪、及び板碑類似の碑、字淵尻にある陰刻板五輪等は多分開拓当時の村と関係のあるものと推定される。
 しかしながらその五輪等の年代はいずれも年月等を刻印していないので正確には不明であるが、その様式より判断するといずれも室町時代を下らないものと思われるのである。
 すなわち五輪は下より地水火風空を象徴するものとされているが、そのうち水輪が球に近いものが鎌倉時代の特徴を示し、室町時代になるとそれが鉄碗型のものが多いこと、またその火輪は室町時代のものは勾配の急なものが多いのであるが、笹川のものは四基の五輪・二基の板五輪がいずれもこの室町時代の特徴をよく示しているのである。
 また、正覚寺の由緒に最禅坊という禅院のあったことを伝え、現在もその跡地の字に最禅なる地名が残っており、かってこの地より最禅と刻印した瓦を発掘したといい、また加順坊・二ケ堂などの地名が残っていることは、このような寺院・堂字等が少くとも江戸時代以前に存在していたことを示すものである。
 江戸時代の史料には既にこれらの寺院堂字は出てこないのであるから、これらは江戸時代以前に廃絶したことを示すものである。このような寺院堂字が存在していたことは既に村が始まっていたことを示すものであろう。

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Img_1814-2.jpg蔭刻板五輪(宇渕尻)